第90話:莫逆の友(十二)

「ああん?」


 金太郎の声が荒々しく、分かるように言えと訴える。傷口から血を流し、渡辺源次の刃を避けながらだ。苛立ちの理由はそちらかもしれないが。


「左足に重みをかけたまま、左足を踏み出そうとはしない」

「当たり前だ。宙に浮かなきゃできるもんか」

「それを源次殿はやっている」


 不可能ではない。うっかり躓いた時など、重心のかかった足をさらに踏み出すのは誰しもやる。片足跳びの要領で。

 だが転ばないための緊急措置として。争いのさなか、自身のたいを好んで不安定にする者は居ない。


「ついでにこちらの、まばたきの拍も盗んでいるだろう。一瞬にも満たない僅かな間に、予測外へ身を躱す」


 だから消えたように見える、とは金太郎も納得したはず。しかし返る声は機嫌悪く「で?」のみ。

 その息継ぎを隙と見たか、渡辺源次の脇差が深い踏み込みで伸びる。


「金太郎!」


 構えていた太刀を、松尾も突く。

 金太郎に小さな傷を増やしたところで、渡辺源次の手首を刺し通す──という確実な未来が見えた。相手が常人ならば。


 しかし現実は違った。獲物を締め上げる蛇のように、渡辺源次の脇差が太刀に絡みつく。

 狙いは金太郎でなく松尾。気づいた時には、手から太刀が引き剥がされる寸前。

 風が唸る。天を、巨大な手が覆って見えた。振り下ろした金太郎の平手が、渡辺源次を弾き飛ばす。


「はあっ、はあっ」

「た、助かった金太郎」


 初めて、まともに当たった。呻き声の一つもなく、距離を取らせたにすぎないけれど。


「それに、源次殿は煙でなかった。動けぬ時には動けない」

「ああ。そうらしい」


 切れた息で金太郎はにやと笑う。整える間に、松尾は散らばった襖の一枚を拾った。


「ついでに、隙間がなければ通れない」

「ふぅん。任せろ」


 なにを説明せぬうち、金太郎も襖を拾う。とりあえず五枚を束ねて持つと、力強く頷いた。

 松尾は手にした襖を頭上へ掲げ、渡辺源次に投げつける。それを合図と勝手に決め、直ちに走った。


 たかが投擲した物など、さっと躱される。だがその動きは、全て松尾の視界の中。渡辺源次の避ける場所へ、先読みで太刀を振る。

 が、さらに避けられた。松尾は二歩を離れ、金太郎を待つ。


 すぐさま、襖が降る。渡辺源次の上に傘を作った三、四枚が。

 すり抜けようとする方向を見定め、松尾は追う。駆ける速度では勝り、あらぬほうを見つめる背中にあと一歩。


「覚悟!」


 襟首へ手を伸ばし、まさに掴もうとした瞬間。また渡辺源次の姿は消えた。行く手には襖で壁を作った金太郎。


 まさか。

 松尾の背に寒気が奔る。あらぬほう・・・・・から遠ざかり、転がって逃げた。

 紙一重。遅れていれば、脳天を割られる軌跡で脇差が振るわれた。


「なぁにやってんだ」


 冷や汗を拭い、立ち上がる。馬鹿にした声は、言わずと知れた荒二郎。

 複数の意味で、目を向けたくなかった。だが強く踏む音と、続けられた言葉に負けた。


「壁にすんなら、もっといい物があんべが!」


 太刀を杖代わりに、やっとで立つ様子。気に入らぬ風に何度も畳を踏み、そのせいで転ぶ。

 周りに一人として、動く鬼の姿はない。


「さすが天下一だあ!」


 喜々と叫んだ金太郎が、畳を担ぐ。まず三枚、高く放り投げると同時に二枚を拾って走った。

 松尾は同じ芸当を諦め、己の太刀に集中する。落下した畳が立って止まり、作られた即席の林の目前へ駆け込んだ。

 すぐさま倒れる畳と畳の合間を、渡辺源次が抜けて出るはず。そこで脇差を奪うのが松尾の役目。


 予想通りと言うにも、ほかに道がない。狙ったそのものの位置へ渡辺源次が踏み込む。畳の隧道の中途では、腕を動かすのも自由でない。

 松尾は切っ先を鍔元へ向けた。巻き取らんと刃先を回すや否や、渡辺源次は腕を引いた。

 お気に入りを奪われまいとする子供でないのだ、その行為になんの意味も見出だせなかった。


 ──いや意味はあった。

 側面に金太郎が迫っている。渡辺源次はそちらを斬った、畳一枚をもろともに。


「くっ……!」


 金太郎の苦悶から耳を閉ざす。当人が手にした畳を渡辺源次に押しつけたのだ。今度こそ脇差を奪い、落ちたものを遠く蹴飛ばした。

 けれども、まだ。右腕と首を締め、拘束を。飲ませるべき神便鬼毒酒は松尾の手にない。


「くそったれが」


 腹を押さえ、もう一方の手に竹筒を持ち、金太郎は膝を引き摺って歩いた。

 口に突っ込むと、それからの抵抗はなく。とくとくと音を立てて酒が流れ込んでいった。渡辺源次は静かに膝を突き、蹲る。


「ああっ!」


 金太郎も横倒しになって呻いた。畳に流れる血が、楽観の量を遥かに上回る。松尾は半身の布を裂き、巻き布を拵えた。


「ぶちのめすのを忘れたな」


 頬を引きつらせた松尾が言えるのは、これくらいだった。大丈夫か、傷は浅い、などと白々しい言葉を吐きたくなかった。


「そうだった。また今度だな」


 ため息混じりに細く、金太郎は言う。

 大丈夫だ、この男がこれくらいで死ぬものか。松尾は己を欺くことを怠けない。

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