第89話:莫逆の友(十一)

 少しでも渡辺源次の加勢があれば、松尾は敗れていた。都で一番の達人を抑え込んだ、頼れる巨漢を呼ぶ。


「待たせた金太郎!」


 濃茶の法衣が、黒く濡れそぼつ。あちこち覗く肌は朱に艶めき、畳の小さな血溜まりは無数と言って過分ない。


「あの野郎、逃げ足は天下一に間違いないや」


 両の拳が苛々と打ち合わさる。鉞はあさってのところに突き立っていた。

 命を取るほどでないらしい、これ以上の流血をさせなければ。並び立ち、松尾は安堵の息を吐く。


「荒二郎殿よりか」

「ああ。天下二だった」

「なら、どうにかなりそうだ」


 戯れはさておき。捕えることに徹した金太郎でさえ、これほど痛めつけられるとは。

 やや猫背気味に、力なく垂らした両腕。およそ肩幅、ゆったりと膝を曲げた脚。染みついた自然体で、渡辺源次は掴みどころ薄く揺れる。


「しかしこの、煙みたいな野郎をどうすりゃいい」


 芯を抜いたように、ゆらゆらと。金太郎の言う煙とは、まさしく。


「──煙なら、袋へ閉じ込めるほかないな」


 答えるなり、金太郎の身体が縮こまる。それから「なるほど」と、一直線に突っ込んだ。右も左も、どちらへ躱されるか見極めて応じよというらしい。


 松尾もすぐさま畳を蹴った。どちらと考えても詮ない、二人しても隙を失くすことは叶わないのだ。

 ここに袋と言えば部屋の四隅くらい。隙の大きなほうへ逃れるはずの渡辺源次を、誘導せんと。


「せいっ、せいっ!」


 いかに小柄でも、金太郎の腕より脇差の先が遠く伸びる。だというのに、掴みかかる手に恐れは見えなかった。

 渡辺源次の刃が向けば、もちろん松尾が打ち払うつもりでいる。けれど、つもりであって必ずでないのに。


「源次殿!」


 頼光は倒れてもがく。今、渡辺源次の行うべきは戦うことか。

 ひと声を呼びかけたところで伝わるはずもなく、松尾の太刀はいずれも外れた。さながら宙に漂う綿毛を狙うごとく。


「ちぃ、くそっ!」


 たった今まで掴もうとした、斬りつけた相手が消える。眼の端にどうにか、金太郎との間を抜けていく影は捉えたが。


「相手の行く先を読むだけでは足りぬ、だったか」


 舌打ちの金太郎も同じく振り返った。少しずつ隅へ近づいていたのに、反対の隅へがまた遠い。


「それ以上どうしろってんだ」

「煙がどうすり抜けるか、風の全てを読めとでも言うのかな」


 初めて足柄山で相対した時、眼が悪いとも言われた。金太郎の「できるか、そんなもん」と答えたとおり、風の意思を知るなど神の所業。

 いやそれは、なにかの喩えであろうが。


「どういうつもりで動いてんのか、この野郎だけはとことん分からん」


 追い詰める手順を、再び金太郎は始めた。長い腕は渡辺源次の二歩に匹敵し、大きな手は片方で腰を掴み上げられる。

 袋と言うなら、金太郎が追う時点で半ばはそうだと言えた。あと、足らぬとすれば追い込む松尾の領分。


「源次殿のつもり、か」


 あえて松尾は、金太郎との間を広く取った。金太郎も察してか、反対に掴み手を伸ばす。

 互いに離れるように踏み込み、渡辺源次が次の動きを見せる前に太刀を出す。膝の高さを刈り取る心持ちで。


「うっ、どこへ」


 また見失う。今度はどこをすり抜けたかも見えなかった。

 すぐに見つけたのは、先ほど松尾が仮に踏み込んだ方向。もし仮にでなければ、渡辺源次が真正面へ来ていたことになる。

 惜しい、とは思わない。よくもそんな真似ができる、と驚嘆するばかり。


「これで博打ではないと言うんだろうな」

「したり顔だ」


 何度目かの仕切り直し。息を整えると、腕をくすぐる感触に気づく。

 袖が裂けていた。二の腕に付いた傷が少なくない血を吐き出し、滴っていた。


「いつの間に」

「殺気ってもんがないんだ」


 ふと聞こえた言葉に「ああ」と合点がいく。どういうつもりでと、これも金太郎が言った。


「私は太刀を振る時、振るつもりで振る」

「ああ?」

「避ける時には、避けるつもりで避ける」

「おい、頭でも打ったのか」


 脈絡なく、当たり前のことをわざわざ口走る。松尾がおかしくなったと狼狽える金太郎は正常だ。


「源次殿にはそれがない。右へ行こう、前に出よう、そういうつもりを動きに見せない。だから私達は先を読んだつもりで、全く読めていない」

「へえ。それでどうする?」


 ゆるりと話し込む猶予はなかった。すっ、すっと距離を詰める渡辺源次に、金太郎は腰低く突進の構えで迎える。


「今から考える」

「早くな」


 言って、金太郎は平手を突き出す。渡辺源次は同じく突くか、届かぬところまで避けるしかない。けれど結果はどちらでもなかった。

 掴みかかる腕を掻い潜る恰好で、渡辺源次は身を屈める。


 問題はその次、膝から下をなくしでもしたように前へ倒れ込む。あわや顔を潰す勢い。ほんの一瞬の差で肩が畳に着き、前回りを行う。

 たったそれだけ。距離を保ち、見ることに徹した松尾には拍子抜けするほど。


「金太郎、後ろだ!」

「おう!」


 すり抜けた渡辺源次が、金太郎の腕に斬りつけんとした。これを前回りで躱したのは、偶然にほかならないが。


「見えた、煙には予備動作がない。重心も動かさぬから、私達には意図が読めない」

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