第88話:莫逆の友(十)

「この源次殿も消えるぞ。よそ見のあとに」

「よそ見?」


 刃を交えるさなか、そんなことをするものか。きっと金太郎は訊ねたが、松尾も答えを持ち合わせない。

 大鍋と椀、差し鍋や盃の散乱する荒野に、倒さねばならぬ男が二人居る。

 頼光の手には太刀が戻っていた。渡辺源次の脇差は畳に引き摺って。


「いつぞやの礼もしないと」

「悪いな。そいつは、おらがやる」


 手にした椀を投げ上げる。落ちると同時、右手に回り込む渡辺源次を金太郎が正面に捉えた。左手に走る頼光は、松尾が切っ先を向ける。

 背後に巨岩を負ったような安心感は他にない。頼光を、仕える主と遠慮する心持ちもない。自然、松尾の喉が言葉を紡ぐ。


「いざ、尋常に」

「勝負だ」


 金太郎の踏み出しが、屋敷をどっと傾けたように錯覚させた。対して松尾は、その場に鞘を落とした。それから低く構える。痛みに腹を抱えたかの恰好で。


 跳ねる金太郎が畳を揺らし、乙姫を守る荒二郎の刃鳴りもやまない。

 賑やかなのは好きだった。住処のすぐ先、夜ごと酒盛りの声を子守唄に眠った。命を削る音色は、これきりにしたいと松尾は願う。


 比べれば無音に近い足運びが、間合いを侵した。真っ向から僅か左、松尾は突くしかない位置から頼光は斬りかかった。

 躱せば次の一歩で金太郎へ襲いかかるだろう。望みどおり、最速の片手突きを見舞う。


 肩垂れを削った右腕が蹴り飛ばされた。たいを開かされた松尾に、振り直しの袈裟懸けを避けるすべはない。

 いやさ、避けるつもりがなかった。


 左手に握った鞘を振り抜く。狙ったまま、手首へ。

 鈍く骨が軋み、頼光は太刀を落とす。すかさず松尾は足払いを放った。


 まだ動くのか。

 常人なら、痛みで動けぬはず。それが頼光は猿のごとく跳ねた。鷲爪の形で手を突き出し、松尾の眼を潰そうと躍りかかる。

 太刀で受けても怯むことをしない。掌に拵えた赤い滝を、みるみる広げていく。


 体格で劣る頼光がじりじりと押す。顔に雫が落ちるたび、焼け爛れた錯覚に陥る。

 畳に尻が着き、松尾は膝蹴りを横腹へ叩き込んだ。痛みを感じてもない様子の頼光は、びくともしなかったが。


「くっ」


 なぜ力負けするか、捜せば答えは明白。頼光は関節の動く限界を、曲げるも伸ばすも遠慮がない。筋を切ろうが腱を伸ばそうが、構わぬという動きは真似ようもなく。


 峰が頬に喰い込む。頬骨を砕こうというらしく、頼光の全力がその一点にかかる。

 皮膚が裂け、骨が鳴いた。畳に押しつけられた松尾には、文字通りに手も足も出ない。これが逆であれば、鬼毒酒を飲ませる絶好の機会。


 ──逆。

 逆にしようとまでは、たしかに考えた。しかしそこから、松尾にもどうして動けたやら。

 太刀を畳に刺し、切っ先をより深く突き込む心持ちで柄を押し上げる。と、ふわり。重みを失くしたとしか思えぬほど軽く、頼光が浮いた。


 勢い余り、あわや一回転を堪え。手近の大鍋を抱えて落とす。と、裏返しの鍋縁が頼光の肩を押さえ込んだ。

 松尾がちょいと足を乗せるだけで、もはや身動きがとれない。


「文殊丸」


 太刀を引き抜き、頼光の眉間にぴたりと付ける。

 ほんの一寸、このまま突けば終わり。

 浮かんだ言葉に、松尾自身が問う。なにが終わるのか、と。

 なにもかもだ。

 松尾の返答を、否定しない。間違いなく、そのとおりと頷きもする。


「外道丸と、ささが先だ」


 乱れた息にも曖昧にせず、松尾ははっきりと言った。ただ、太刀を竹筒に持ち替えるには十ほど数える間を使って。

 栓を抜き、頼光の口腔へ筒先を押し込む。途端、上がった絶叫を松尾は顧みなかった。

 案じるべきは、ほかにある。

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