第87話:莫逆の友(九)

「ずらっ!」


 突然、景色が水平に飛び去った。渡辺源次の姿は失せ、共にもんどり打った頼光の腕も外れる。

 首を回せば、蹴り足を戻す荒二郎が居た。まま腰を捻り、倒れた頼光に太刀を突き下ろす。

 転がって、三歩ほどを離れた渡辺源次の足元まで。松尾も同じく、荒二郎との距離をなくした。


「乙姫殿は」

「おりが要るずら。松尾太郎に死なれちゃ、それも叶わねえからよ」


 さっと視線を走らせると、姫は短刀を抱えて立つ。逆手の鞘をいつでも抜いてやるぞと、遠目にも震え。

 目が合うと、また気丈にも乙姫は、青褪めた唇を笑って見せた。


「申しわけない」

「ずら」


 荒二郎を警戒したのか、頼光らは距離を縮めようとしない。役割を再び分けるより、並んでいたほうが良いのだろう。

 それには盃浦の人々を斬らねばならないが。


「荒二郎殿。備前守と源次殿には角がない」

「んん? っちゅうと、鬼でねえだが。だら、なんで襲ってくるべ」

「それは……」


 それは松尾も知りたかった。考えようにも、向かってくる鬼にきりがなくなった。蹴飛ばし、殴りつけるだけでは間に合わない。

 もはや鬼が何人と言うより、肉の壁が何枚と数えたほうが正しかろう。乙姫のもとへ戻りつつ、荒二郎も手足を縦横に用いた。


「ああっ、どんだけやればええが!」


 殴って倒れた鬼は踏み越され、何人かを倒せばまた同じ顔を見る。荒二郎を苛つかせる理由は、松尾にあった。


「このくそ公時も、いつまで寝てるべ。食うばっかり一人前じゃ、どうにもならねえずら」


 いつの間に、乙姫の短刀も刃が見えた。自身をだけでなく、金太郎を守っているようだった。ただ、一振りごとに姫の肌も傷ついていく。

 呑み込まれる。およそ確定した未来が、松尾の腹の底を殴りつけた。


「親父は偉かったかんねえけど、母ちゃんとやらが甘やかしたに違いねえべ!」

「──ごめん」


 加速する荒二郎の雑言。しかし謝ったのは、鬼達へ。拝むように太刀を握り直し、今度こそ斬ると決めた。

 その機会は来なかったけれど。


「おらぁ、足柄山の金太郎だあっ!」


 あまりの大音声だいおんじょうに、乙姫と周囲に居た鬼が尻もちを突く。

 金太郎は鉞を引っ掴み、膝を立てて一振り。膝を着いて二振り。腰半こしなかで三振り、仁王立ちで四振り。


「母ちゃんの悪口ぃ言ったのは、どこのどいつだあ!」


 怒りが、鉄の硬さをした竜巻となって荒れ狂う。斬られるなどと生易しくはない、鬼が触れるや否やに四肢を引き千切られる。


「ひいぃっ!」


 仰け反り、道を空ける荒二郎。唸る鉞を遠回りに避け、「あたしは知らねえずら」と無関係を装って離れた。


「金太郎、金太郎!」


 夢やうつつであったのだろう。松尾が押し止めようとしても、金太郎が気づくのには間がかかった。

 押し寄せた肉壁を半分以上も薙ぎ倒し、ようやく「あれ?」と寝ぼけた声で応じる。


「おら、なにしてんだ」

「私と荒二郎殿と、乙姫殿の命を救ってくれたところだ」

「はあ?」


 首を捻るも、すぐに厳しい眼を取り戻す。「ありゃあなんだ」と鉞が向くのは頼光と渡辺源次へ。


「分からん。酒呑童子に焼かれたはずなんだが」

「焼かれた?」


 油断のない視線が、あちこちへ走る。


「この鬼どもも焼かれただろ」

「うん、それが」

「煤の一つも付いてないってのは、どういうこった」


 あらましを伝えねばなるまい。言いかけ、金太郎の継いだ言葉に息を呑んだ。

 言うとおり頼光に、渡辺源次に、鬼に、畳に。どこにも燃えた痕跡がなかった。


 焼かれたはずが、焼かれていない。

 似たような出来事が、この広間で先にもあった。


「まやかしだ。人肉の鍋と同じだ」


 足元に散らばる椀を、一つ拾う。現実は猪鍋でも、食った時には酷い味だった。今、見えている光景のどこからどこまでが幻かは分からないが。


「じゃあ、とりあえず飲ましてみるか」


 気安げに己の腰を叩く金太郎。そこに神便鬼毒酒を収めた竹筒がある。

 鬼の全員に飲ませる量はないが、頼光と渡辺源次の幻は解けるに違いない。


「飲ますって、どうやって」

「簡単なこった。ぶちのめして捩じ込む」


 鉞の柄に、ぷっと唾を噴き。金太郎は四股を踏んだ。

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