第85話:莫逆の友(七)

 火焔が球に。より顎が開き、吐き出さんとする。時の流れをどうかしたように、松尾にはその様がはっきりと見えた。


「そこまでずら!」


 何者かの声。酒呑童子の口が急速に閉じられ、飛び出す半ばの火球を噛み砕いた。

 牙の隙間から無数に、炎の舌が伸びた。くぐもった爆ぜ音が特大に一つ。飛び散る業火に乙姫が顔を背ける。

 松尾は己の胸へ、柔らかな身体を隠した。


「荒二郎殿」


 宙で酒呑童子の顎を斬り上げた男が、軽やかに下り立つ。松尾の声に振り返ることなく、震える切っ先を酒呑童子へ向けた。


「に、逃げるべ」


 頼光らを包んだままのはげしい炎を、一瞥もしない。どこからか見ていたと察し、松尾は首を横に振る。


「来てくれたのには礼を。でも私は──」

「なに言ってるずら! あ、あんたが逃げなきゃ姫さんが逃げねえっちゅうずら!」

「しかし金太郎を置いては」


 ぎろり。己の火では傷つかぬのか、酒呑童子は煙を上げながら睨めて見下ろす。


「男はどうでもいいずら! あ、あたしが守るのは、馬と女だけだべ」

「馬?」


 突飛な言葉をそのとおり返したが、元は馬売りの商人だったと思い出す。


「刀なんか怖くて怖くて堪んねえべ。っちゅうのに、親父が勝手に決めて死にやがったが!」


 舌を躓かせながらの早口が、松尾を「なるほど」と言わせる。

 ──でも。

 理解したとて、従ってはやれない。わなわなと震える酒呑童子を睨み、乙姫を荒二郎へ押しつけ、松尾はかぶりを振った。


「外道丸!」


 童子の鼻息、開いた口からも炎がこぼれる。腹立たしげに吐き出されたそれを、松尾は素手で弾く。


「勝手に名付けるんじゃねえ、俺は酒呑童子だ」

「では酒呑童子、お前が武士を嫌うのは知っている。そこを押して、この三人を見逃してくれ」


 乙姫、荒二郎、金太郎。指さしても、それぞれをは見ない。特に乙姫を。


「聞き入れると思うのか。お前らは俺の仲間になにをした」

「ああ」

「薄汚え人間が。なにをしたでもねえ俺の仲間を」

「ああ」

「武士ってのは、いつもそうだ」


 いちいちに松尾は頷く。外道丸がどう考えているか、知れる機会があるとは思わなかった。


「どうしてそう思う」

「あん? 思うもなにも、事実だろうが!」

「それは今日のことか? それとも前にもあったのか。それほど強いお前が、以前にも仲間を殺されたのか」


 大気を揺らす怒声が、ぴたり止まる。


「あん……?」

「いつもと言っただろう。それはいつだ、お前の仲間はいつ殺された」

「いつも──だ。迷い込んだ武士が、鬼の村と知れば」

「うん、そんなこともあるだろう。でももっと昔、お前が仲間と呼んでくれた人達を失くしたことがあるんじゃないのか」


 なにをか言おうとする酒呑童子は、なにをも言わずに唸る。

 松尾は確信した。間違いない、外道丸の記憶を忘れているだけで。たしかに奥底へ居る。


「うう……」

「私は松尾丸。お前と、妹のささと。やって来た二人に、なにかしてやりたいと思った。でもこれということはできなかった。あげく、ささの腕に古傷まで作らせた」

「知らねえ……」

「思い出せ、お前は海賊達が好きだった。ささも恥ずかしがっていたけど、子供達に囲まれるのは楽しかったはず」


 頭を抱え、酒呑童子はよろめく。「くうっ」と苦しげな姿に、荒二郎など太刀を持ち上げかけた。


「話したいんだ。やるならこの隙に逃げてくれ」

「そうしたいけんどが」


 松尾が押さえれば、素直に下ろす。しかし、と言いたいのは分かる。唇を一文字に結んだ乙姫は、どうしても動きそうにない。


「俺は知らん。人間なんぞ知らねえ!」


 叫んで、酒呑童子は壁にもたれた。歩み寄る松尾に爪を向けつつ。


「嫌だったろう? 腹が立っただろう? 盃浦のみんな殺されて。だけどお前は、そいつを殺した。もう終わったんだよ」


 あと一歩。爪に触れる間際で、松尾は太刀を納める。それから「もし」と問うて、踏み出す。


「まだ怨む相手が残っているなら、それは僕だ。一緒に逃げようって言ったのに、見捨てて一人で」


 だから胸を貫こうと、首を引き裂こうと、好きにすればいい。刃と変わらぬ感触を、自らの身体へ押し当てていった。


「うぅぅ……てめえら」


 絶え絶えの声が、なんと言ったか。松尾には聞き取れなかった。

 けれども爪に傷つけられることはなく、するりと向こうへ運ばれていく。まさか許すとでも言ったかと、松尾は喉を詰まらせる。


「外道丸、私を許すな」

「うるせえ。お前の相手はそっちだ」


 ゆっくり、酒呑童子は進む。茨木童子の去った襖へふらふらと。

 そっちと、軽く松尾は突き飛ばされた。振り返れば斃れたはずの鬼達が、夏の陽炎のごとく立ち上がる。


 外道丸を。

 追いたかった。しかし荒二郎だけでは、何十という鬼に対しきれない。歯噛みで酒呑童子の背中を見送り、金太郎のもとへ動いた。


「荒二郎殿、鉄扉へ」

「お、おう」


 巨漢に肩を貸して起こす。ほぼ引き摺る恰好だが、どうにか歩けそうだ。

 松尾も逃げる姿勢になれば、乙姫も荒二郎に従う。なぜか鬼達は上から糸で吊ったようにぎこちなく、のろまだった。


 これなら乙姫を無事に帰せる。

 ふっと吐いた息は、決して安堵ではない。むしろ庇ってくれた乙姫への暗い感情に、気づかぬふりをした。

 視界に入れぬよう、子供じみたこともする。結果として、異変を察することとなったが。


「備前守が」

「あぁん? 馬鹿言うんじゃ──」


 全身を砕かれた頼光。ともに炎に包まれたはずの渡辺源次が、倒れた場所に立っていた。

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