第76話:鬼退治(十二)

 はみ出した牙。突き出た角。鬼と化した事実そのものを除けば、父は記憶のままだった。

 七年前、隣同士で眠った時の。毎夜、目を瞑るのに一片の不安も抱かせなかった父の。


「しかし面妖な、儂らも歓待されたのです。それがなぜ、荒ぶることとなったやら」


 頼光は握った太刀の汚れを拭う。そのまま鞘に納めたのは、抜き身と今さらに気づいたのかもしれない。場違いに泣き崩れた松尾を叱る素振りはなく。


「なぜもなにも、あんたの酒が効いたんだろうさ」


 松尾の傍にあった金太郎が、どすどすと歩く。頼光との間に割り込み「どういうことか」と問う渡辺源次も置き去りに。


「こいつだ」


 ひっくり返った鍋の脇から、金太郎はなにやら持ち上げる。突き出して示されたのは、頭骨。鼻面の長く、太い牙を持った獣の。


「それは。猪か」

「おう、おら達の食ったのは猪鍋だ。ほれ、このとおり」


 僅かこびりついた肉を齧り、咀嚼する。金太郎は「うめえ」と、汚れた口周りを手でこすった。

 頼光の眉間に深い谷が刻まれ、いかにも思案げに柄杓を取る。


「なるほど。腹の立つほど旨い」


 汁を啜り、そっと柄杓を置いた頼光の眼は、外へ出るほうの鉄扉を睨んだ。


「つまり、なんだっちゅうことずら?」

「惑わされていたのだろうよ、それがしもお前も。その幻を酒呑童子の飲んだ神便鬼毒酒が晴らした、ということだ」


 荒二郎も渡辺源次も、それぞれに柄杓を持った。慎重に鼻を利かせ、揃って「旨いな」と。


「おいおい、鬼を弱らせるちゅうて聞いたはずだに。だら、さっきの愛想のいいほうが良かんべや。暴れさしてどうすんべ」


 猪の脂で滑ったか。荒二郎の言に、渡辺源次も「むっ」と詰まる。とはいえ一瞬のことで、「しかし」と続けたけれど。


「鬼毒酒を含んだは、この広間へ集った鬼のみ。奥から出でた鬼にまで及ぶは理屈に合わぬ」

「したら、あの酒は関係ねえっちゅうべが?」


 どちらへ転んでも、神便鬼毒酒は役に立っていないことになる。渡辺源次は腕を組み、考え込んだ。


「……ああ」


 少しの間を置いて、ぽつり。頼光の声。


「そうかそうか。荒二郎、お前のおかげで分かった。つまりは親王殿下のご懸念が、正しいということ」

「はあ、なんのことやら分かんねえけど」

「分からんか? 幻であったなら、これだけの鬼がそれぞれに謀ったのではあるまい。お前達は羅城門で、不可思議な場所へ閉じ込められたのだろうよ」


 広間に、何十人の鬼が眠っているか。その一人ずつを舐めるように、頼光は水平に指を動かした。


「羅城門は茨木童子が──」

「うむ。力を持った大鬼が、現実とは異なる場所に見せかけた。そしてここには、茨木童子以上の大鬼が居る」

「っちゅうと幻の消えたんが、酒呑童子の弱ったせいで?」


 大きく、頷いて「うむ、今が好機」と。頼光はまた太刀を抜き放ち、脇に眠る鬼へ向いた。


服ろわぬ者・・・・・この頼光が滅して候・・・・・・・・・


 大上段に構え、ひと呼吸を整えて振り下ろす。気負いも迷いも見えぬ、ただ一直線で。

 だが、その刃はなにを断つことも叶わなかった。中途へ奔った、白銀の閃きに弾かれて。


「今、なんと言った」


 眠る鬼の上、太刀を真横に振り抜いた。頼光の太刀を、松尾は圧し折るつもりだった。


「おお、松尾太郎。二間ほどもあったはずだが、いつの間に。しかし邪魔をしてくれるな、いつ鬼毒酒が醒めるやもしれん」


 常の頼光が吐く、軽々とした声。表情は色なく、能面のごとく。


「なんと言った。今、鬼を斬ろうと。お前はなんと唱えた」


 笑わぬ顔の、口角だけが持ち上がる。

 まだだ。弾け散らんとする己の魂を押さえつけ、松尾は静かに問い重ねた。


「どうした、親の仇でも見つけたように」

「そのとおり。私の村を、盃浦を、滅ぼした張本人の言葉だ」


 震える太刀を差し置き、左の指を突きつける。


「文殊丸」

「いかにも」


 松尾の声に半ばかぶせ、頼光は答えた。

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