第74話:鬼退治(十)
違う、この村で見てきた鬼とは。剝き出た牙、怒りをしか読み取れぬ眼。
「行け松尾丸!」
「ああ!」
吼える金太郎は背中を向けた。後ろの鬼に対さねば退路が消える。
松尾は前へ。脇から振り下ろされる爪を構わず、己の進む正面をだけ切り開く。
「勝手なことを」
聞こえた呟きは、なかったことに。一歩を出すと同時、右から伸びる腕を切り払う。返す刃で左の首を二つ連ねて飛ばし、二歩目を。踊りかかろうとする鬼の喉を突き、踏みつけて抜くので三歩。
およそ全力で駆けぬけながら、そうやって何人の鬼を斬ったか数えるのは難しい。
「乙姫殿!」
「あぁっ、浦辺さま!」
抱いた子供もろとも、松尾の胸に乙姫は飛び込んだ。焚きつけた香が舞い、受け止めた左手に温もりが伝わる。
以前に嗅いだのとは異なる匂い。けれど問う間も、無事を喜ぶ暇もなかった。
乙姫を押し剥がし、後ろへ追いやる。ちらと見れば、頼光の太刀がすぐそこで閃いた。乙姫と来た数人を「広間へ!」と逃がし、松尾は再び正面を向く。
どっ、どっ。
鬼の駆けるのは重々しく、駆け足の恰好をする。人が全力で走る時の前屈みになれぬのか、そうする考えが回らぬのか。
ただし図体が増す分、女の全力では逃げきれぬ速度。乙姫はよく無事だった、と追ってきた先頭を横薙ぎにした。
「乙姫、皆様よく無事で。儂らも救いに来た甲斐があるというもの」
「備前守さま」
頼光の、迎える声。答えた乙姫の声が詰まり、一つでない啜り泣きが聞こえた。松尾の奥歯が苦しげな軋みを上げる。
「すぐ近くへ儂の家臣が来ております。まずはそこまで」
頼光の声は、既に何歩も離れた。追い縋る鬼を斬り、蹴り飛ばし、猶予を拵えては一、二歩を退く。
何度を繰り返せば、広間へ戻れるのだったか。戻ったところで、次から次と現れる鬼をどうするか。
一人ずつには遅れを取ることないが、永遠に続けるわけにもいかない。
この先へ、外道丸とささが。
こうしている間に、手の届かぬところへ消えてしまう気がした。
早く。早く。
急く気持ちが、いっそこのままと思いを変えさせる。金太郎が居れば、きっと乙姫も逃げられる。身一つで突き抜けるなら、いちいち斬る必要もない。
また一人を斬ったところで、続く鬼との間が空く。
今。次の一団の中央に隙を見定め、松尾は全力を脚へ傾け──られなかった。
「待たせた、松尾丸」
並んだ男が、鉞を悠然と前へ。
「あれを蹴散らせば、とりあえず終わりらしいな」
「ああ、本当だ」
「気づいてたんじゃないのか」
松尾を一回り大きくした鬼が三人ずつ、左右に。たしかにその奥へは、誰の姿も見えない。
特上に苦みの強い笑いがこぼれ、加える言いわけがあるはずもなかった。
「さあ。そこまで考えてなかったんだろう」
「いいさ。松尾丸もおらも、ぴんぴんしてる」
にやりと上がった金太郎の口角は、どちらへ向けたものか。ともあれ四、五人分も吸い尽くしそうな息に松尾も合わせ、声もなく二人同時に床を蹴った。
「どっせい!」
いつもながら大胆に、鉞が大上段から振り下ろされる。松尾も結果の如何をたしかめることなく、袈裟懸けに太刀を振ろうとした。
が、止まった。
おそらく、止められたと言うほうが正しい。なんの不思議もない不可視の力で。
「お頭……?」
斬れるわけがない。
幼いころの記憶のまま、海賊頭領がそこに居た。怒る顔が初めてというくらいで、見間違えようもなく。
連れる二人、いやさ金太郎の対する三人も海賊の仲間達。「粥を食わせろ」と、どの声もありありと思い出せる。
懐かしさに、お頭は広げた両腕で抱きつこうとした。それを松尾は呆然と眼に映す。
「松尾丸!」
金太郎の声と共に、お頭の横面がひしゃげる。そのまま視界の外へ飛び出し、代わりに金太郎自身が見えた。
松尾が斬るべき二人の海賊を、両の拳で文字通りに叩き潰す。
嵐のごとく、金太郎の腕は荒れ狂った。しかし背後には届かない。まだ無傷の海賊が、鋭利な牙を突き立てた。
「くぅっ、痛えだろうが!」
鮮血が散る。巨漢が歯を食いしばり、肩口を押さえた。その赤と、声と、苦痛の顔と。松尾はどれにか目を覚めさせられた。
噛みつく鬼に、金太郎は肘を打つ。一度で離れず、二度、三度。
宙吊りとなり、背骨も折れたはず。風に揺れる襤褸布のようになっても、鬼は食いついたまま。
狙いすまし、松尾は太刀を突いた。首を切り離すことで、ようやく牙も剥がれる。
「悪い、金太郎」
「どうした。父ちゃんでも見つけたか」
冗談のつもりだろうか、傷口から血が噴き出る。押さえた手の隙間からでも。布を当て、手拭いで縛ってどうにかだ。
「父ちゃんじゃないけど、そんなところだ」
「……そうか」
別の鬼に見つからぬうち、広間へと戻る足を向けた。何度も、何度も、動かぬお頭を振り返りながら。
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