第72話:鬼退治(八)

 神便鬼毒酒の効力はいかがなものか、松尾の眼はまばたきをも惜しんだ。

 だが酒呑童子は、あるかないかの息を「ふ」と吐くのみ。ゆったり口もとを拭い、空の盃にまた大とっくりを傾けた。


「悪かねえってとこか」

「うはは。儂もあちこち行きはすれど、これ以上の酒に出逢うたことがない。それを酒呑童子殿は悪くないと、どれほどを口にしてきたか羨ましい限り」


 囃して、頼光は膝を叩く。対して不機嫌な鼻息とともに、酒呑童子の眼光は集まった仲間達へと逸れた。


「ふん。あとにも先にも、旨いものなんぞ一度きりよ。二度と飲めねえが」

「ほう、造り手が途絶えられたのか。残念なこと」


 なにを暢気な。飲んだ鬼は直ちに力を失うと、言った当人がこれではどうして良いやら。

 斬るべきは今か。

 これから後に、その時はあるか。

 すぐにも太刀へ触れようとする手を、松尾は平静の顔で宥める。乾いた喉を血の香で濡らしながら。


「ところで酒呑童子殿、同じ酒がもう一つある。よろしければお仲間にも飲ませてはいかがか」


 渡辺源次に預けた大とっくりを、頼光はまた押し出す。と、途端。酒呑童子の眼がぎらり光った。

 懐かしい青空の色でない、血の色の瞳が。


「うるせえ。俺が仲間になにをするのも、俺の仲間がなにをするのも、誰の指図も受けねえんだ」

「あ、いや、これは失敬。気を遣ったつもりでしたが、申しわけない」


 目の色を変えると言うが、これほど明らかには見たことがない。怒りの炎が噴き出したように、酒呑童子の眼は盛った。

 それでもすぐ謝ったからか、「余計を言うんじゃねえ」で収まる。次に盃を傾け、離した時には元の朱に戻っていた。


「おい、イバラ」

「はい。シュテン」

「飲みてえって奴が居れば、飲ませてやれ」

「ええ、みんなに」


 さして間も置かず、大とっくりが茨木童子に預けられた。先に酒呑童子の飲んでいたほうを。しかし間に合わず、もう一つも。

 それから、効くまでの時間稼ぎだろう。頼光はくだらぬ噂話に花を咲かせた。


「儂らの師匠は少しばかり知恵の回る人で、貴族や武家の方々が相談に来ることも多い。まあほとんどは誰か気に入らぬ、邪魔な者が居るという話だが」

「はっ。人間てのはそういう生き物だ」


 面白がることをしなければ、うるさい黙れとも言わない。中でも武士の悪口めいた話には、酒呑童子も「碌でもねえ」と悪態をつく。


「それで結局お前の目から、人の中に碌な奴ってのは居るのか」


 どれくらいが過ぎたか。酒呑童子の呂律が怪しくなった。頼光もなんのきっかけなく「うはははは」と笑いが止まらない。


「そうですなあ。これが不思議なもので、褒められるばかり貶されるばかりという者はなく。結局、聞いた話ではなにも分かりませんな。うははは」


 今日、何度目かの「くだらん」を酒呑童子が吐き捨て、頼光は楽しげに「ただまあ」と付け加える。


「貴族はどうやって他人の物を貰おうかとしか考えぬし、武士はどうやって貴族に使われようかとしか考えぬ。うははは、碌な者など儂の眼に映りませぬな」

「そうか」


 伏し目がちに、地の底から諜うような朱の瞳。常に不機嫌で、笑っても皮肉としか見えぬ酒呑童子。

 その表情が、ついに変わった。重そうなまぶたをこすり、あくびを立て続けに二度。


「おい。イバラ」

「はい、シュテン」

「珍しく酔ったらしい、寝るぞ」

「分かりました、奥へ行きましょう」


 茨木童子を呼び、右の襖から部屋を出ようとする。


「ああ、お前達。この部屋のものは、好きに飲んで食え。気が済んだら出ていけ」


 立ち止まるのも僅か、二人の鬼は連れ添って去った。板を摺る足音も、やがて消えた。


「さて」


 平伏していた頼光が顔を上げる。声にも顔にも、酔った気配は微塵もない。

 右へ、左へ。広い部屋を見回すのに、松尾も倣う。多く用意された鍋を車座に囲み、誰もが畳へ寝こけている。


「けえっ。とんでもねえもん食わせたずら!」


 散々食ったろうに、荒二郎は今さら唾を吐く。だけに留まらず、太刀をも抜いた。


「待て荒二郎。これから備前守がご指示される」

「いや源次殿、あたしがこれを向けるのは鬼にでねえずら」

「うん?」


 勝手なことをするな。押し止めようとした渡辺源次に、荒二郎の首は横へ振られた。

 さっ、と。流れる動作で抜かれた刃が、ぴたり突きつけられる。


「荒二郎殿、これは?」

「鬼は当たり前。だけんど今、あたしが気に入らねえのはお前さんだ。松尾太郎」


 踏み込み一つで届く。間合いも荒二郎の表情も、冗談では済まない。


「なんでお前さん、ここへ入ってこれた? なんでお前さん、平気でこの鍋ぇ食えた? 茨木童子に気があるとか言ってたにい」


 睨む荒二郎は、感情のほどを足で示した。赤い汁の残る大鍋をひっくり返して。

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