第71話:鬼退治(七)
「おい。イバラ」
さして大きくもなく、酒呑童子の声は部屋じゅうを震わすように感じられる。
ぎくりと松尾が強張ったのは、別の理由だが。
「はい、シュテン」
「端の男が、お前に気があるらしいや。酌くらいしてやれ」
「まあ。あたしを?」
あたかも小さな鈴の音で、銀髪の鬼は笑った。
「イバラ、殿?」
「世間の皆さんは、茨木童子とお呼びでしょう」
位置を替わった茨木童子が、差し鍋を傾ける。細い注ぎ口から、どっどっと濃い赤が満たされていった。
「腕を失くしたと聞きました」
「ええ。でも今は、おかげさまで」
右の肩を撫でて見せ、茨木童子は前を退く。松尾のほかには気づけない、僅かな笑みを湛えたまま。
こっそり視界の端で、後ろ姿を追う。茨木童子と女鬼は部屋を出ていかず、松尾らの後ろへ遠回りをした。
襖から、鉄扉から、ぞろぞろと鬼があふれた。最初の十人ほどを数え、あとは諦める。
手にした盃から、嫌な臭いが上がった。まるで、などと喩える必要もなく、そのまま血の香がする。
ちょうど、ぎゅっと噛んだ奥の方で、同じ味がしたところだ。
「金太郎」
「うん」
小さく呼べば、小さく返る。隣の巨漢は、横目で頷いた。
「笑うなら笑え。声に出して言わないと、私にはできる自信がない」
「うん」
「私はこの酒を飲む。鍋も食う。備前守の酒を飲ませなければ、
金太郎は少し首を動かし、背後を探った。それからまた頷く。
「好きにやれ。尻は持ってやる」
答える間を惜しみ、松尾は盃を運んだ。口を開けば、そこはただの穴。液体を流し込めば、通らぬはずがないと言い聞かせ。
酒気を含む鉄の味が、鼻の奥から頭の芯までを浸けた心地。ふわ、と遠退きかけた意識を縛って引き留め、今度は鍋の杓子を取った。
選り好みをするほど、直視ができない。松尾にはむごさよりも、中の誰かを犯す心持ちがして。
足柄山で、落ち葉混じりの泥をどれだけ舐めたか。この鍋は、それと似たような口触りがした。煮たところで血は血の味で、よもや旨かったらどうしようと懸念は消えた。
村長が拵える、糞尿混じりの堆肥を思い出す。いや、あれに頭から飛び込むほうがましか。
お前のせいだ。
やがて松尾の脳裏に、恨むべき相手が浮かぶ。鼻汁を手で拭いながら、どこへ居るやらの相手を呪った。
お前のせいだ。
お前のせいだ。
文殊丸──!
「いい食いっぷりだ。しかし、お前らは食わねえのか?」
「これは失礼をば。実は儂らの師が、見知らぬ物はまず眼で食えと言うもので」
「ほう、面白い。だがもう眼は膨れただろう? 未だ知らぬものを知りたい、だったな」
自身の椀と格闘する松尾には、ほかの者を見る余裕がなかった。けれど酒呑童子の催促のあと、汁気を啜る音が幾つも重なって聞こえた。
松尾が椀を空にすると、明らかに鍋が目減りしている。だがほかの鬼達も、それぞれに鍋を囲む。
では。腹の底にぐっと力を篭め、松尾はお代わりを掬い取る。
「──鬼は鬼を喰わんが、人は人を喰う。か」
問うようで、独りごちのようで、酒呑童子は言った。睨まれていても、それは最初から。
「もちろん初めてです。しかし酒呑童子殿は、馳走すると仰られた。知らぬものを知らぬまま、まずいと蹴散らしては人の道に
ぐぐ、と盃を空にして頼光が答えた。どんな顔をしていたか、もっともらしい言葉に酒呑童子の鼻息がかぶさる。
「ふん、嘘か真か。人が心から、お前の言うように考えるなら。誰も怨みなんぞ持たねえだろうさ」
「左様ですな、本当に」
目を向けても、金太郎の向こうは見えなかった。ただ酒呑童子は「まあいい」と、頼光の置いた大とっくりに手を伸ばす。
「少なくともお前達は、厭らしい好奇の人間ってだけだ。酒はありがたく飲んでやる」
「どうぞどうぞ。お口に合えば良いが」
深く、畳につくくらいまで頼光の頭が下がる。倣って松尾も金太郎も、おそらく向こうの二人も。
三つ数えて顔を上げた。酒呑童子の朱盃が、ちょうど並々と満たされたところ。
ためらう素振りなく、薄い唇が盃と接する。
大勢の鬼がやんやと騒ぎ立てる中。勢いよく吸い込む喉音が、なぜか松尾の耳にはっきりと届く。
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