第68話:鬼退治(四)

「間違いありません。ここが入口で──」


 松尾の腹の底から、熱い塊が込み上げた。喉と鼻を強く打ち、じんと痺れさせる。

 掌で、口を覆う。なにもこぼさぬよう、顎を閉じさせたと言うほうが正確かもしれない。それでもなお口の端から、指と指の間から、涙の色の息がこぼれ落ちた。


「あん? なんで分かるずら」

「そうです。ここは何度も通った辺りで」


 遠慮のない荒二郎に、案内の組長が乗り合う。

 答えたくとも、松尾は声を出せなかった。出せば、堰き止めたものが流れ出す。少しだけ待ってくれと願い、その場に両膝を突いた。


「どうせ当てはない、信じてやってみれば良かろう。間違っていても、胴元の居らん博打だ」

「もちろんそれは構いませんが。やってみるとは、なにを」


 うなだれた松尾に追い打ちをかける者はなかった。頼光と組長が向かい合って唸り、ほかは岩壁に触れてみたりする。


「お、そうだ。公時、あれを出せ」


 乾飯でも渡せというように、頼光が手を出す。金太郎もなにをとは問わず、背負った笈を下ろした。

 取り出した童子の右腕を抱え、頼光が右往左往。石柱に添わせてみたり、地面へ放ってみたり。


「うぅん、芳しくないのう。まあ通り一遍は、お前達がやったのだろうが」

「畏れながら」


 三十も過ぎの組長は、世話係の少年と同じようにかしこまった。


「その腕は自力で戻ろうとした。すると自由にしてやれば、自力で入口を開くとは考えられませぬか」

「ほう。やってみよう」


 少しの沈黙を持ち、次に案を出したのは渡辺源次。駄目で元々と言う頼光も、二つ返事で封じ札を剥がし始めた。

 渡辺源次が地面に腕を押しつけ、頼光が縄を解く。童子の腕はみるみるうちに、鋼のごとき筋肉を取り戻した。


 松尾もどうにか落ち着いていた。が、確実にこうするべきと知るわけでない。やがて金太郎も加え、三人掛かりの作業を見守る。


「よし、いちにのさんでな」

「心得ました」


 頼光と渡辺源次と、金太郎の両腕にも青筋が浮いた。かかわらず何度も、童子の腕は地面から離れた。


「いちにのさん!」


 合図として意味があったか疑わしい、駆け足で。ともかく指示のとおり、三人の手が離れた。

 やはり。茨木童子の右腕は、石柱の脇へ向かっていく。手負いの蛇のように、全体をくねらせて。


「おお……」


 岩壁に、童子の腕が入っていった。水へ映る、虚像であるかに。

 すぐさま、着いて歩いた頼光も同じ壁面へ手を伸ばす。しかし当たり前の岩に指を突く音が、痛々しく聞こえたに終わる。


うぅ。なんだ、腕を逃がしただけではないか」

「ふむ、どうしたものやら。人を遣り、陰陽寮おんみょうりょうでも頼みますかな」

「馬鹿を言うな」


 突いた指を咥え、恨めしげに。頼光が渡辺源次を睨む。ただしその両者の視線が、さらにどこへ動くかは予想がついた。


「松尾太郎。そろそろ良いか」


 良くはない。

 松尾は答えなかった。声だけでなく、首も眼も動かさず。


「行かないと、乙姫殿が」


 乙姫のせい・・・・・にして、両手を合わせる。それから眼を瞑り、幼いころを思い浮かべた。

 味噌と酒と、村の仲間達を願ったこと。


「どぶろく様。お願いします、どうかこの先に。私達を、ささの居る場所へ通してください」


 もし開かなければ、諦めよう。鬼の城へ入るのも、ほかのなにもかも。

 そうあってくれと思いつつ、松尾はまぶたを上げた。薄く、片方ずつ。


 誰の声もなく、開かなかったのだと期待した。だが現実、松尾の前に岩壁は消え去った。

 草木の生えない峡谷が、奥へ奥へと続いて見える。何十間か先から、靄にけぶって見えないけれども。


 反対に、よく見えるものもある。どぶろく様の向こう、門代わりにか二つの岩が据えられていた。

 そこにもたれる、一人の鬼。褐色の頬が大きく動いて、あくびをした。


「ふわあぁ……」


 頭頂に角もある。鬼に間違いないはずだが、どうも人と変わらぬ表情に違和感を覚えた。ようやくこちらに気づいたらしく


「あ」


と驚く様も。

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