第67話:鬼退治(三)

「おい。どうした、平気か。松尾丸、おい」


 金太郎の手が肩を揺する。もしも地震なら、建物の残らず崩れるほど。

 けれども今の松尾には、返事をすることさえ思いつかなかった。もしくは呼ばれていることそのものに気づいていなかった。


「おい。またなんだか、わけのわかんねえ術じゃねえが?」


 膝立ちで、遠ざかろうとする荒二郎。「むっ」と躙り寄る渡辺源次。


「松尾太郎!」


 裂帛の一声。続けざま、柏手のごとく、乾いた音が響く。渡辺源次の掌が、松尾の頬を三度打った。


「あ……」

「どうした松尾太郎、魅入られでもしたか。己を手放すでない!」


 見ていたし、聞こえていた。ただ、なぜそう言われるのか考えるのに間がかかった。


「いえ、正気です。ちょっと、ぼうっとしていただけで」

「とても、それだけとは思えんが」


 胸倉を掴む渡辺源次の手に、そっと触れて引き離す。「大丈夫」と頷いて見せたが、白々しいとは百も承知。


「なにがあった。今のお前の有り様を、尋常とは納得できぬ。正直に申せ」

「いえ本当になにも。鬼の正体が、か細い女と知ってどうにも」


 狼狽えただけだ。かぶりを振っても、ひん剥いた渡辺源次の眼が離れない。


「本当です。嫌な予感というか、心持ちが怪しくなっただけで」


 とは言いわけであっても、嘘でなかった。決定的な、湧き上がろうとした過去の記憶を、松尾は胸の奥へ押し戻した。


「良い」

「しかし備前守」

「良いと言っている」


 拘る渡辺源次を、頼光が宥める。珍しい位置関係に、仕える側が引き下がった。


「嘘でも真でも構わん。しかし松尾丸・・・、仲間を危うくしてまでの意地は張ってくれるな」

「分かりました」


 応じる松尾が深く頭を下げたのは、渡辺源次の視線から逃れるためだ。それに油断をすれば、退けた記憶が舞い戻ろうとする。


「今宵は回復に努めよ。明朝、日の出の前に出立する」


 強い口調の頼光が腰を上げる。そのまま本堂の奥へ行き、おそらく寝転んだ。

 渡辺源次はと言えば、なおも睨めつける気配。しかし結局、頼光の傍へ動き、やっと松尾は顔を上げた。


 だが、どうすれば。渡辺源次によって封じ札を貼り直される腕から、目が離せない。

 その視界が突然、向きを変える。松尾に動いた意識もないのに、眼は天井を収めた。


「ここは狭っ苦しいや。別んところで寝るぞ」


 猫でも抱くように、松尾は金太郎の腕に支えられていた。誰が止めることもなく、本堂を出る。

 二十歩ほど先の、古びた納屋へ放り込まれた。尻もちをついたが、積まれた藁に救われた。


「金太郎」

「おらが聞いといたほうがいいのか?」

「──分からない。信じられないし、信じたくない」

「そうか、言いたくなったら言え。おらが寝てたら、起こしてもいい」


 それだけ言うと、金太郎は寝転がった。がさっと藁を掻き寄せ、熊の昼寝のごとく。

 すぐ、いびきが聞こえ始める。本堂を窺っても、これという音もない。山颪やまおろしに草葉の騒ぐせいかもしれないが。


 座り込んだ藁山に埋もれ、なにも考えまいと考え続けた。いつしか睡魔に敗北することもできた。


「ささ」


 と。誰かの独り言も、草葉の音に違いない。




 朝。世話係の少年が湯を運んでくれたのは、遠い稜線が微かに見え始めたころ。昨夜と同じ湯漬けを流し込み、一行は寺をあとにした。


 少年を先頭として、黙々と登る。最初のうちこそ山歩きの道が踏み分けられていたものの、やがて岩と木の根を乗り越える連続となった。

 それを休憩もなく、昼までで頂上へ辿り着いた。ずっと、頼光はお得意の冗談を一つも口にせず。


 大江山のてっぺん、北に海を見る。遥か彼方という距離で、入り組んだ海岸線の見分けはつかない。

 でも盃浦から、ずっと見えてた。

 だからどこかにあるはず。右から左、左から右、と何度も目玉を往復させた。


「どうした。どこぞ、見知った場所でもあるのか」


 乾飯を突き出して、頼光がやってくる。受け取って口に放り込み、返事をする間を稼ぐ。


「……私はあまり、方向に聡くありません。ですがたぶん、この景色の中に、故郷があります」


 服ろわぬ者。鬼と同じに呼ばれた場所を、どうして言ったのだろう。

 途中でやめることもできたのに、松尾は最後まで言いきった。


「ああ、その気があるなら帰ってみれば良い。酒呑童子の後ならば、儂に遠慮は無用」

「はあ、ですが」

「魚獲りくらいはしていたのだろう? これまた気が向けば、儂にも旨いのを頼む」


 立ち寄らなくとも良い。そう言おうとしたのにかぶせ、頼光はさらに勧めるようなことを言う。浦辺と名付けた時から、なぜ海辺の育ちと決めつけるのやら。


 乾飯を噛み終わって、ふと少年の居ないことに気づいた。と思えば北の斜面を、当人が登ってくる。都から、童子の腕を運んだ組を引き連れて。

 直ちに、その者達からすれば来た道を戻った。苔むした高木に景色が沈み、海は見えない。


 懐かしくあっても、胸を掻き毟られる心地がするばかり。このほうがいいと息を吐いたのも束の間、案内されたのは切り立った崖の上。剥き出しの岩壁が、竦む高さで眼下へ伸びる。


「この辺りです。この崖の近くへ来ると、あの腕が酷く暴れて。それで札を増やしたのです」

「なるほど?」


 案内した組長の言葉に、頼光は金太郎を振り返った。今や茨木童子の右腕は、鉞と仲良く納まっている。


「しかし見つからぬ、か。松尾太郎、どう思う」


 前触れなく、頼光は問う。

 分かれて都を出た者達が、各々に頭を働かせて捜し回っている。それを赴いたばかりの松尾に、なにがわかるはずもない。


「は。そう言われても」

「うむ。では儂らも、辺りを見てみることとしよう」


 何十人が、二日も三日もかけているのだ。頼光の言い分では、冷やかしのようで居心地が悪い。

 なにか見つけねば。

 なにも見つからないといい。

 どちらも本心で、どちらも心から否定したい。もやもやと分厚い霧が、松尾自身の気持ちを覆い隠す。


 乙姫殿。そして──


「あっ」


 ぐるり大きく迂回し、崖の下へ出た時のこと。松尾は意識せぬ声を漏らした。


「なにか見つけたか」


 耳聡く、頼光が振り返った。

 まだごまかせる。いや、ごまかすわけには。


 食いしばる松尾の目の前、腰ほどの高さで石柱が立った。単に大きな岩の砕けた片割れのような、どことなく人が拝む姿のような。

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