第64話:四天王(八)
草鞋を脱ぎ、足を洗う前を、早足の頼光が通り過ぎる。大内裏へ向かう装いで、もの言う間もなく片手を挙げただけで。
──それから朝の飯の用意を待ち、食い終わって湯を飲んでいるところ。頼光の、渡辺源次を呼ぶ声が響く。
さて身体を湯拭きし、ひと眠りするかという予定を、顔と首周りを洗うだけに留めた。
「碓氷荒二郎! 坂田公時! 浦辺松尾太郎!」
世話係の少年に、桶や手拭いを返すところだった。少年は「四天王をお呼びとは、よほどがあったのでしょうか」と渡辺源次の声に目を丸くする。
「いやいや、
呼ばれたのも、その呼び名も。
苦笑して見せたつもりだったが、おそらくうまくいかなかった。続くため息を、せめて細く吹いてごまかす。
「
いつもの外縁の間に赴けば、まだ頼光だけだった。格子の塞がれた板を閉じるようにと、従う間にあとの三人も揃う。
終いの渡辺源次は最後の一枚を閉ざす前に、辺りを何度も見回した。
「近日中、酒呑童子討伐の勅が出る。なにもかも万全に備えておけ」
表情も声も、頼光に普段と異なる部分を見つけることができない。しかし、にやりと笑む口から、余計な言葉が一つたりとこぼれぬことがおかしい。
「急だな。なんかあったのか」
松尾の胸に浮かんだのと同じを、舌打ちの金太郎が問う。
「承知していると思うが、今ここにある者のほかは口外無用だ」
頼光はなぜか、じっと松尾を見つめて答えた。常なら既に堪えきれぬはずの、「うはは」とこぼす声もなく笑って。
緊急に、池田中納言からの呼出し。直後、酒呑童子討伐の勅。吉事の気配などまるでないものを、なぜ見る。
「昨夜、右大臣家で宴が催された。中納言と乙姫が招かれ、今もって姫がお戻りでない。姫の牛車は──」
音が失せた。頼光の唇は続いて動くにも
「乙姫殿が?」
誰に訊ねたでもなく、喋ったつもりもなく。松尾の喉はひとりでに、小さな声を吐き出した。
姉姫を羨んだから。秘密を明かした交友の姫を焚きつけたから。乙姫の言葉が今にも耳に聞こえ、関係ないと
「想い人なんか居ないって」
それも関係がない。人間が誰を好こうが惚れようが、鬼の知ったことでないはずだ。
なぜ、どうして、よりによって乙姫が。
忘れ物を取りに行かなければ良かった。戻ることのない時間の戻し方を、松尾は記憶に求める。
「松尾太郎。浦辺松尾太郎!」
「はいっ」
怒声に打たれ、背すじを伸ばした。視界を占めるものが、床から渡辺源次に替わる。「な、なにか」と訊ねるも、示す手が頼光へ向く。
「いや。なにか問うておくことはないか、それだけだ」
「ええと、その。急なことで、なにがなにやら」
「そうか。またでも構わぬ、心に曇りなきようにしておけ」
先ほどより幾分か柔らかく、頼光は頷く。「じゃあ、あたしから一つ」と始めた荒二郎に、視線も移した。
「親玉をどうかするっちゅうことは、備前守も一緒に?」
「無論だ」
「左様で。それだけ聞けば、あたしは安心ずら」
言うとおり、荒二郎は腰を上げた。「さっそく準備を」などと嘯き、部屋を出ていく。
金太郎もなにか訊ねただろうか。十歩遅れて、荒二郎に続いた。
「松尾太郎?」
お前はいいのか。そんな調子の渡辺源次に、松尾は首を縦に振った。
が、立てない。
なにか言わねば。このまま去っては駄目だ。そんなことばかり思い浮かぶのに、肝心のなにがかには辿り着けなかった。
「酒呑童子のところへ」
「うむ、ようやくだ」
黙っていれば、追い出される気がした。だからとお題目を繰り返すだけでは、知りたがりの子供のようなもの。
「対面する理由ができたんですか」
考えるうち、ふと見つけた。口に出してみれば、これこそ問わねばならなかった。
「ああ、そんな話をしたな。そのとおりだ」
「乙姫殿が鬼に拐われる。それが理由になると?」
「乙姫と限るなら、否。結果としてであれば、
いつになく精悍に見える、口角を少しばかり持ち上げた頼光。他人の感情を読み取る神通力は持ち合わせないが、松尾には
「乙姫殿でなくとも、誰かれ構わず拐われてほしい。動かざるを得ないような、大騒ぎになってほしい。そう願っていたということですか」
騒ぎになれば、どんな得があるのやら。理解が及ばずとも、熟考の
あなたが鬼だ、と。
「多分に訂正の余地はあるが、見当外れとも言えんな」
「お願いします。訂正を、私を納得させてください」
二、三度、渡辺源次の腰が上がりかけた。そのたびに頼光は手で制し、いよいよ微笑も消えた。
「そもそもだが、なぜ見廻仕などやると思う」
「鬼や賊を野放しにできないからです」
「うん、そこだ。目的でないとは言わんが、同時に方法と言える」
なにを言った。首を捻り、「なんです?」と声にも出す。
「お前と儂の目的は違うという話だ。第一に、帝の
「武士とは備前守の抱える者……が、第三」
当然とばかり。「いかにも」と口にも出し、頼光は頷く。
「帝をお守り奉るのに力及ばぬでは、貴族も糞も同じ。ゆえに儂が成り代わり、平安の世をお支え申し上げる」
「成り代わる? 貴族に」
「悪の影は濃く、大きいほど良い。誰も敵わぬ、居所を掴むことさえ至らぬ。誰にもどうにもならぬ、と。子を二人とも喪った中納言が儂に頼んだのだ」
そんなことを、と言いかけた口を噤む。
毎夜、鬼を退治する武士と、横目に遊び呆ける貴族。羅城門や周辺を、貧しい者の躯で埋めたのは誰のせいか。
「少なくも
酒に、あるいは自身に。酔った加減は見えない。
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