第61話:四天王(五)
なにを話せば良いか。そも、こちらから話しかけて良いやら。竹を編み合わせただけの目隠しが、松尾の勝手を違わせた。
考える時間がそのまま沈黙の時間となり、重ねるほどに次の言葉の難易度が上がる。呼んだのは乙姫なのに、なぜ黙っているのだろう。
「……忘れ物がある、と言われて来たのですが」
どうも責めたような言い方になる。だからほかのきっかけを探したのに、松尾には見つけられなかった。
「それは、お出でいただくための口実です。忘れ物などありません」
「なにか、ご用事ということで?」
ゆうべより控えめな声が、申しわけないと訴えて聞こえた。
「用。用件は──」
深く行われる息遣い。自分を落ち着けるためか、鼓舞するためか、姿が見えぬではそれも想像でしかない。
「わたくしはなぜ、浦辺さまをお呼びしたのでしょう」
耳を疑う。押し詰めた喉の隙間から発するかの声は、松尾をからかっているとも思えないが。
「用がないとすると、その。ああ、話し相手になれとか? 楽しい話をと言われると難しいですが、それでも良ければ」
「いえ、お伝えしたいことはあるのです。でもなぜ、お伝えしようと思ったのか」
同じことを金太郎が言えば、からかったとしか考えない。乙姫となにが違うかと言えば、あの男からこれほど真剣な声を聞いた試しがなかった。
「私には、友があります。ちょっと、進む道に困ったことがありまして。その時、道の選び方を教えてくれました」
「お友達」
「ええ、それからずっと。ずっとなどと言えば、なんだそれくらいと笑い飛ばすような男です。でもそれが、私の心を軽くしてくれます」
そういう友が、乙姫にはないのか。あっても、その友こそが悩みの種かも。だとして、松尾に言えることは一つ。
「勝手に推測しましたが。私などに言うか言うまいかと、悩むのはその辺りでしょうか。ならば私に言えるのは、正直にありのままを相手に伝える。それだけです」
御簾の向こうに、なんの気配も感じなかった。あり得ぬことだが、松尾の気づかぬ間に去ってしまったと疑うほど。
「……悔しいですね」
不意の雨垂れに似て、重く慌ただしい乙姫の声。
「あっ。すみません」
「そうではありません。浦辺さまの仰ることが、的を射ているからです」
覚悟していたが、怒りを買ったのだと松尾は思った。しかし裏腹、くすくすと乙姫の笑声が漏れ聞こえる。
「正直に。ありのままを言えば、笑われるのでは。わたくしがお呼びしたというのに、勝手なことですが」
「今日、言えずとも仕方のないことです。乙姫殿の中で、それだけ大切なのでしょう」
どうやら許された。ここで切り上げ、ではまたと帰れば波風はない。
けれどもそれでは、松尾を呼ぶところまで振り絞った、姫の勇気を笑うことになる。
「ですが私が聞いても、笑いません。楽しければ笑いますが、嘲笑うような真似は私の備えにありません」
「備え?」
「人と対して、その時になってあれこれ考えるな。どうあるべきか、常に自分の中に備えておけ。これは父に教わりました」
乙姫が黙ると、途端に松尾の胸の内が忙しくなる。なにか失礼を、傷つけることを言ったか。
相手の顔の見えぬことが、これほど不安とは知らなかった。
「つまり、わたくしがなにを言っても。過去にどんな愚かな行為をしていても、嘲笑うことはない?」
「もちろん」
一つ会話の進むたび、ほっと息を吐きたくなる。ただ今度はその間もなく、「こちらへ」と呼ばれた。
「え?」
「遠すぎます、もっと近くへおいでください」
良いのか? と訝ったが、言われるまま腰を上げて三歩。三間ほどが二間に近づく。
「もっと」
「はあ」
二間が一間。
「まだです」
「ええ?」
半間ともなると、松尾の膝が御簾に触れる。どころか乙姫の姿が、およそ透けて見えた。
「良いのですか。これでは目隠しの意味が」
「構いません。本当は開け放したいのに、わたくしの往生際の悪さとお笑いください」
「なるほど、それなら必要ですね」
可愛らしい方だ。そう思い、口角が上がるのを自覚した。
「昨夜、身分違いの想いがありやなしやと申しました」
話すと決めたらしく、淀む間がなくなった。さすがに声量は絞られたけれども。
「ええ」
「でも、そんなお方は居ないのです。わたくしに想い人などありません」
「内大臣家でしたか。その方だけという──」
「わたくしに想い人はないのです」
喩えるなら、よく研いだ鉈のごとく。力みを感じさせぬ乙姫の声が、すとんと落ちた。
「姉のある頃。婿を取るか取らぬかさえ、なにを言われたこともありません。居なくなった途端、中納言家のすべてはわたくしに掛かっている、と」
乙姫の眼が、松尾の胸の辺りへ下がる。何度も持ち上げられるものの、そのたびに。
「どこの家と結ばれるも、貴族の女の倣いです。ですが要らぬと放し飼いにした女を、なぜ今さら。わたくしは姉や三条の姫さまを羨んでいたのです」
貴族の決まりごとは、堅苦しそうという程度にしか分からなかった。それでも、放し飼いという言葉が浮いて聞こえた。
乙姫殿は、どうして私にそんな話を。
まさか身分違いの相手に、などと自惚れはしない。姫は涙の代わりに膿を出しているに違いない、松尾はそう思った。
「それが、鬼に拐われるなんて。わたくしはなんということを」
「乙姫殿の悔やむところはないでしょう?」
「そうでしょうか。秘密を明かしてくれた方々を、わたくしは焚きつけたのですよ」
ああ。慌てて、頷きかけた首を静止させた。
よろしくない方向へ煽り、そのせいで相手が鬼に連れ去られた。というのが事実なら、悔やみたくもなる。
「一つ、疑問があります」
松尾は問うてみた。うまい慰めを期待できる自分ではないのだから。
「なんでしょう」
「身分違いをした人を、鬼が拐う。本当にそうでしょうか」
「違うのですか?」
「分かりません。分かりませんが、確証もないはずです」
松尾にできるのは、人より少しうまく刀を振ること。そうしてできることは限られていて、慰めや偽りを除く。
すると言えることが、ほかになかった。
「たしかかと言われれば、それは」
「そうです、誰にも分かりません。だから私がたしかめてきます。拐われた方々のところへ、鬼のところへ」
ひゅっ、と。乙姫の息が止まる。細く長い指が、自身の胸を引き絞るように掴んだ。
「今すぐとはいきませんが、必ず答えを持って戻りましょう。少し、時間をいただいても良いでしょうか」
「そんな。わたくしに、そんな約束をされても良いと?」
「私にできることは、ほかにないのです」
乙姫は声もなく、繰り返しに
「必ず」
「はい」
「必ず戻ると言いましたね?」
「ああ、言ってしまいましたね」
「聞いてしまいましたよ」
乙姫が頷く。食いしばった口もとを、無理に笑ませて。
「今なら、姉の気持ちが分かるかもしれません」
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