第59話:四天王(三)
母屋を出ると、庭に篝火が見えた。幾つも等間隔に、荒ぶる赤い炎が松尾の影を壁に落とす。
煌々とするにも
もう夜か。
浅いながら、天は黒に塗り尽くされていた。今宵もどこかで誰かが、きっと鬼に出遭う。
見廻りを怠けること四日目。腰の鞘に触れてみるものの、どうやって鯉口を切るのだったか。などと寝ぼけたかの己を、松尾は鼻で笑った。
すべて格子板の開け放たれた廊下を歩く。どこへということはなく、おそらく人の声から遠ざかって。
内壁沿いに角を折れると、別の建物と繋ぐ渡りの廊下に出合う。一人でいるには丁度良い、そう思って進めば、先客の存在に気づいた。
床まで届く長い黒髪。先日と着物は異なるものの、乙姫に間違いない。
扇を持つ手も垂れ下げ、立ち尽くす。見回しても、ほかの者の気配はなかった。
なにをしているやら。知らぬが、邪魔をしては悪い。踵を返そうとした松尾の耳に、深いため息が届く。
「ふぅ────────」
身体の内をすべて吐き尽くそうとでも言うのか。そう思うほどに長く、それでいて細く。
雪のごとき白い肌。一輪、梅の花を置いたような紅い唇。女の顔を長らくまともに見ぬ松尾にも、誰も美しいと呼ぶことが想像できる。
ただ、雪だとするなら。融けた雫が今にも落ちそうだ。
「乙姫殿」
誰が呼んだ。いや、松尾自身の声。
無意識だったが、もう知らぬふりは適わない。二十と数歩を、さっさっと歩み寄った。
「これは、浦辺さま」
おもむろに、乙姫の頭が下がる。しなやかな、稲穂にも似た姿を、松尾も真似た。
「あぁっ!」
顔を上げた姫は、薄く笑む。が、すぐに表情を凍らせ、顔だけをそっと背けた。
「どうかしましたか?」
「いえその、わたくしとしたことが。直に顔などお見せしてしまい──」
逃げ去るわけでもない。なにをするにも丸見えの中、姫はこそこそと扇を上げた。
汚い物でも隠すみたいに。
勿体ない、と松尾は思う。
「顔などって、お綺麗なのに。あっ、もしかすると貴族の方にはそういう決まりごとでも」
破らせたなら、見ていないことにすれば良い。瞬間に誓い、もう一度松尾は頭を下げた。顔のすべてを隠すだけでなく、俯いてしまった乙姫に。
「すみません。なにか悩みごとかと思って、うっかり声をかけてしまいました。私はここで、なにも見ていない。今日は乙姫殿に会ってもいない。それでどうにか」
あたふたと声が上ずる。それでもしばらく、姫の返答はなかった。
どうしよう。言ったとおり、この場から消えたほうが良いのか。考えるものの、それでは無責任が過ぎる。
三たび。松尾は頭を下げ、時を待つ。
「うっかりとは、わたくしのほうです。浦辺さまには、詫びることなどございません」
ようやく、姫の眼が見えた。下の睫毛もあわやというほど、ぎりぎりにだが。
先ほどの雪の肌が、真っ赤に色づいていた。「すみません」と、ほかに発すべき言葉が見つからない。
頭を二つ分も低い位置から、乙姫はじっと見上げた。潤んだ瞳に映るのは松尾だが、その奥へは違うものがある。
なにか、怖れている。いつか遠い日、見覚えのある眼だった。
「乙姫殿?」
問うても声はない。どころか
いつまでも、朝まででも。そんな行為が終わったのは、庭の茂みが動くことによって。乙姫は物音に振り向き、全身を固くした。
「大丈夫、兎でしょう」
小さな獣の気配が去っていく。姫にも聞こえたはずだが、強張ったまま。
「兎です。そうでなくとも、私が居ります」
庭に向いた姫の視界へ割り込み、下手くそながら笑って見せた。
小さく「ええ」と。乙姫は多少の時間をかけ、緊張を解いた。それでも離れた茂みから目を外さず、松尾にはどう慰めたものか思いつかない。
「……わたくしは、悩んでおりましたか」
随分と経った気がする。穏やかな咳払いをして、乙姫が問う。
「そう見えました」
「悩んでいるのでしょうか」
「分からないんですか?」
同じことを頼光にでも言われたなら、からかっていると判断を下す。
しかし乙姫の人となりを知らずとも、そうではないと信じられた。どうであれ、意味を測りかねはするけれども。
「わたくしには、姉がありました」
「それは」
ある、ではない。世情に疎い松尾でも、なぜと直ちに訊ねるのは憚られた。
「ある人に。そう、備前に御縁の方に焦がれておりました。でもそれは、許されざること」
その言葉が、西にある国の名とは聞いた。国とはどれくらいの広さ、どれくらいの人が住むものか、想像も及ばなかったが。
という自分に、備前に縁と言われても。怪訝に首を傾げつつ「備前ですか」とそのままを問い返す。
「きっと浦辺さまもご存知でしょう。身分違いで、叶うことあり得ませんでしたが」
「私も?」
「ええ。しかし姉も縁談が纏まり、覚悟を決めました。良い方だと言っておりました」
誰なのか、正解は示されなかった。駆け足の口調で話が行き過ぎる。
「それから、ひと月ほど。宴に呼ばれた姉は、二度と戻りませんでした」
鬼に。そう問うことのむごさが、松尾の唇を固く結ばせた。だのに、乙姫は頷く。
「三条の姫さま、五条の姫さま。直接にお聞きしてはいませんが、五条の若さまも。鬼に拐われた方々は、姉と同じです」
同じというと。
察しの悪い頭を、必死に働かせた。婚姻の決まった貴族の子を、なぜ鬼が拐うのか。
「おそらく秘密にされているのでしょう。ここ一年ほど、大内裏の親王殿下もお姿を見せぬとか」
「乙姫殿も、その。身分違いの?」
鬼にそんなことが分かるのか。疑いながら、ほかに思い至らない。乙姫に辿り着いたものがあるなら、恥ずかしながら教わるのが早い。
けれど、それも当てが外れた。姫はゆっくりと大きく、首を横に振る。
「あったとして、わたくしは無事にここへ居ます。言えるわけがないではないですか」
「そういうものですか。すみません」
「いえ、お疎いようなので。だから話したのでしょう」
儚い笑声が、離れた篝火が爆ぜたのに紛れる。松尾の噛みしめた、奥歯の音も。
「悩みごとと言うなら、鬼が怖ろしいのだと思います。姉を拐い、今わたくしを悩ませるのは鬼なのです」
「それはその、鬼を退治すれば。もし叶うなら、姉上を連れ帰れば。少しは助けになるでしょうか」
乙姫は、本当にはなにを言いたかったか。理解の至らぬ自分が憎らしかった。
「もちろんです。姉に会えるなら、亡骸だったとしても」
「分かりました、必ず果たします。必ず鬼を討ち倒します」
理解したとして、同じだろうとも思う。松尾にできることは、人より多少うまく刀を振るだけだ。
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