第55話:酒呑童子(十三)
「ぎぃえぇぇぇぇ!」
背中から倒れた茨木童子は、ごろごろと転げて遠ざかる。「いたいいたい」と、幼子にしか思えぬ叫びを上げ。
「仕損じた──」
七転八倒の童子を、舌打ちの渡辺源次が睨む。足下には一本、鬼の腕を転がせて。
「手負いと甘く見るな、怪我では済まぬ。待てば少しは落ち着く頃合いもあろう、そこで一気に」
追い打とうとする金太郎が制された。同じく舌打ちしながらも、指示には従う。
童子の残った左腕が宙を千切り、両脚が床を割る。めちゃくちゃに暴れるだけと言え、鋼のごとき肉体のよる嵐のようなもの。
金太郎に続こうとした松尾もまた、とどめの機会が延びたことに唇を噛んだ。
「いたい、ぶしが、ひどい、いたいよ」
茨木童子の泣き叫ぶさまは、怪我をした子供としか見えなかった。
「へっ。なぁにを言ってるずら。お前はどれだけ殺したっちゅうんだ」
山と化した躯を指さし、罵る荒二郎。そのとおりと松尾も思う。
けれど叫び続ける童子を見ていると、そう口に出すのが大人の振る舞いだろうかとも感じた。小狡いことだが、松尾は黙って時を待つ。
「……ん、壁が」
さなか、ふと気づいた。茨木童子の背後に壁がある。自分達の後ろへも、対面する壁が。
「鬼の術が解けたのだろう、おそらく」
「精魂尽きる寸前ってことか」
渡辺源次と金太郎と、それぞれの言い分に頷いた。さらに各々、得物を握り直したのにも倣う。
駄々をこねる小さな子供に見えて、同情に似た気持ちはあった。だが見過ごすわけにはいかない。
「源次殿、私が」
「うむ。抜かるな」
まだ茨木童子に疲れた様子はない。動きが鈍り始めたら、すかさず。
心を鬼にして──とは、どんな皮肉だ。何度やり直しても柄の滑る気がして、落ち着かない。
「しゅてん! しゅてぇぇん!」
叫び声が変わった。最初の一、二度は嗚咽で違う言葉に聞こえるのだと思った。
いや、違う。
「酒呑童子を呼ぼうと言うのか。まずい、全員でかかれ!」
渡辺源次の号令一下、松尾は飛び出した。すぐさま金太郎に追い抜かれ、命令をした源次が隣へ並ぶ。
正面へ金太郎が行くなら、自分は右手へ。松尾が僅かに方向を逸らした時だ。
「止まれ! 行くな公時、松尾太郎!」
先ほどとは反対の指示が飛ぶ。真意を図るまでもなく、渡辺源次は金太郎にしがみついて止めるところ。
「源次殿、なにを」
「見よ。得体の知れぬ」
まるで怒れる雄牛のごとく、金太郎は渡辺源次を引き摺った。
金太郎も金太郎だが、そこまでする渡辺源次を信じぬ選択はない。問いながら松尾も金太郎を押し止める。
「なんだってんだ!」
「見えんのか、壁だ」
行けと言われ、行くなと言われ。金太郎の苛立ちも理解できた。しかし渡辺源次の指さす先、やむなしとしか言いようのない光景がある。
「渦が……」
「なんだあんな黒い渦。荒れた川に行きゃあ、一つや二つあるもんだ」
漆喰塗りに板張りの内壁が、左右へ伸びる。頑丈そうな白い面に、金太郎の言う黒い渦。
ただし川に行っても、決して見ることはない。床と垂直に巻く渦などと。
「いやぁ。公時の知ってる川にゃあ、あたしは行きたくねえずら」
後ろで、怯えた声の荒二郎。それもたしかに、渦の向こうを覗いてしまえば。
どれだけ居るのか、数えきれぬ鬼の大群が一斉に睨む。中の一人が向こうから手を伸ばし、渦のこちらへ突き抜けた。
盛る炎を固めたような、灼熱の赤。金太郎の脚より太い腕が二本、続いて二本の角を持つ頭もやってくる。
血の色の瞳、噴き上がる炎柱のごとき黄金の髪。渦から半身を突き出した赤い鬼は、茨木童子を両腕で抱く。
「酒呑、童子──」
名乗らずとも、ほかのなにと言われたとして信じられない。知らず漏らした松尾は、己の足が震えていることに驚かなかった。
置き土産に呪いの言葉さえ、睨みの一つも残さず、酒呑童子は去った。
「な、なんだ。あの野郎、恐れをなしたべが」
そう言った荒二郎のあと、しばし誰も動かずにいた。
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