第54話:酒呑童子(十二)
──誰も。
願いを胸に、重い太刀を斬り上げる。そうすれば、望みもしない死に泣く人を、少なくとも
松尾はたしかに、そう信じた。
「けえっ!」
夜に啼く鳥のごとき、童子の声。
嗤われた。耳の奥までを
刃先と鍔、両方を止められた。眼を開けばそのとおり、茨木童子の爪に摘まれている。
「なぜ……」
邪魔をするな。爪を払い除け、怒鳴りつけるつもりだった。
びくともしない。箸で
「私はお前なんかに」
蹴る。
「ぶぅしぃ」
「そうだ、人は斬らない。お前のような鬼だけを斬る武士だ!」
言ってどうする。そう思いながら、叫ばずにはおれなかった。嘲笑うような茨木童子の声に、松尾の腹は煮えくり返る。
期待もしなかったが、返答なく。ふわっと宙へ浮く感覚があった。
なにをされた。理解する間もなし、意識が真っ黒に閉じる。ただしほんの一瞬、背を打つ痛みで目覚め、斃れた躯の山に混ざり込んだ。
「くっ、太刀が」
手の中の重みが消えていた。見回すと、誰かの鞘が目に入った。柄は見えないが、なにも持たぬよりは。
「しんだ? しんだ? しんだ?」
茨木童子が怪訝に首を傾げ、歩み寄る。
間に合わない、躯から抜け出ねば。肩へ伸し掛かる誰かを押し戻し、起き上が──れない。どう絡まったものやら、重量を増した躯がずり落ちた。
跳ぶのとは正反対、童子の歩みは地の底まで突き抜かんばかり。一歩ごと、揺れ動く床もが躯の山を崩す。
「ぶしはきらい」
もう間近。にたあっと顎を開いた茨木童子は、おもむろに右腕を掲げた。裂くか突くか、いずれ避ける方法はない。
集った武士を物差しにせよと言われたが。塗れた躯から、抜きん出てはないということだ。
この期に及んで、渡辺源次の言葉が浮かんだ。落僧など敗れはしても、相手になっていた。
「せめて私の与えたひと傷が、助けになったと言ってもらおう」
あの世で、そうなれば多少の慰めにはなる。誰も先の松尾のごとく、救ってはくれない。
童子の爪を避ける気もなかった。
「どっせい!」
横跳びに転がる。茨木童子が、だ。聞き慣れた、あまりに親しい掛け声と同時に。
「でかした公時」
すすっ、と小柄な男が前に出る。両腕をだらんと垂れたまま、奔った視線は茨木童子に向いて。
その間に、鉞を床へ打った金太郎が手を伸ばす。握り返した松尾の手を、畑の大根よりも軽く引き抜いた。
「ほらね、あたしの言ったとおりずら」
「うるさい、言ってる間に刀ぁ抜け」
はいはいと荒二郎は、珍しく素直に太刀を持つ。
「松尾丸、いい恰好だ」
「うん。助かった」
大きな手に背を叩かれた。ひりひりとするのを堪え、松尾は走った。
拾った太刀に、暗く己の顔が映る。まだ生きて、怪我という怪我はない。甚だ現金としか言えぬでも、拾ったものは使わねばなるまい。
有象無象とは言え、渡辺源次の手助けくらいはなろう。
「源次殿、敵は茨木童子!」
「あい分かった!」
茨木童子の正面に渡辺源次。右へ金太郎、左は松尾。荒二郎は渡辺源次の後ろへついた。
「ぶしぃ、たくさん、ころす。きらい、ぶしはきらい」
童子の両手が床に触れる。また跳ぶのか。いや違う、肩を沈める様子がない。
じり、と鋭い爪が床を擦った。足だ、後ろへ下げた足先の爪。
「囲まれるは不得手、か?」
ぼそり言った渡辺源次が、半歩を進む。すると童子の金切り声が「うっきゃぁぁ」と響いた。
遅れて戸板を煽いだかの風が、狩衣をはためかす。鼻先を水平に、青白い手が過ぎていく。
「なるほど。お前達、付かず離れずその距離で居よ」
もう?
自信に満ちた渡辺源次の声。たったこれだけの短い時間で、もうなにかの対処を見つけたらしい。
ぎゅっ、と松尾は奥歯を噛んだ。「承知」と返すのは忘れなかったが。
「それ」
猫をからかうように、渡辺源次は太刀を揺すって誘う。半歩出て下がり、出ると見せかけて足踏みをし。
松尾も金太郎も荒二郎も、応じて動く童子に合わせてまた動く。
「ぎいぃぃぃ!」
茨木童子の歯軋りが、四度目ほどには耳の痛くなるほど。
その次、渡辺源次の影を叩いた平手が床を砕く。破片を撒き散らし、両手両足が地団駄を踏む。
そろそろ限界だ。たしかに囲まれるのを嫌う様子だが、逆上すればどうなるか知れたものでない。猫のように引っ掻かれれば、あ
「さて」
小さく、渡辺源次の声。もしも合図と言うなら、もっと大きくしてもらわねば困る。
ともあれ頼光の家中、随一の使い手は一歩を踏み出す。童子も狙いすまし、「きえぇぇ!」と平手で薙ぎ払う。
受け止めた。鍔迫りと酷似した、鋼を削る音がする。だがそれでは、人間が鬼を押しきること叶わない。
「源次殿!」
叫び、松尾は踏み込もうとした。力で勝てぬなら、こちらの手数を増やすしかない。松尾で足らねば金太郎も居る。
しかし眼の前を、さっと行き過ぎる小柄な影。もじゃもじゃと髭を伸ばし放題にした男が、小川でも跨ぐように小さく跳んだ。
では、あれは。茨木童子の爪を真っ向から止めたのは。
数拍前、渡辺源次のあったところ。ぎりぎりと刃を鳴らすは荒二郎。
「頂戴する」
静かな声は、松尾の頭より高くから聞こえた。大上段に振り翳しても、力むということの片鱗もなく、渡辺源次の刃はまっすぐの線を虚空に引いた。
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