第53話:酒呑童子(十一)
茨木童子の肩が深く沈む。ひれ伏すように、かつ爪を床に立て。
「きぃゃあっ!」
両手両足をひと息に伸ばし、広げた口から歓喜とも聞こえる雄叫びを上げた。勢い、落僧の頭を咬み取ろうと。
「ぬうっ!」
落僧の足が、細かく何度も床を蹴る。皮一枚、避けた茨木童子の胴へ鉾を振った。が、刃の届くのは行き過ぎた後。
「ふふふっ、まだ素早くなるとは。畏れ入った」
「けけっ。あははははは」
不敵に笑い、不気味に嗤う。両者はまた同じに行き違い、次は間髪入れず。
「くうっ……!」
落僧の坊主頭から、しゃあっと音を立てて血が噴く。右の側頭、あるべき耳の形が消えた。
押さえることもせず、落僧の手は鉾を構え直した。食いしばった歯も、すぐに「わははっ」と笑い飛ばす。
「ぶし?」
ぷっ、と。茨木童子は肉を吐き捨てる。かと思えば、にたり。大きく顎と首を動かした。
「おぉまえは、ぶし? ぶぅしはぁ、こぉろぉすぅ!」
「怨みは武士に、か。良かろう、拙を殺せるのなら願ってもない」
落僧が跳ぶ。今度は三、四歩の距離を一度に。繰り返した二度目で鉾を突く、と見せかけて足踏みをした。
床を抜きそうな強い音と共に、瞬きの時間で茨木童子の真横へ。
「うきゃあっ!」
童子は叫んだ。愉しげに。
さっと走る平手が、埃を払い落とすようだった。打たれた落僧は文字通りに床を転がる。五度か六度も。
「しんだ?」
けたけた嗤う茨木童子は、ゆらゆらと千鳥足気味に近づく。一歩ごと、「しんだ?」と問いながら。
「生憎」
答えて、落僧は立つ。腹の底で臼を回すかに、途切れぬ呻きを漏らしつつ。
右腕で鉾を頼り、左腕はぴくとも動かない。両膝もがくがくと、震えの治まる気配はない。
「ぶしは、ころすの」
ひと足ごとの問いは、漏れ落ちる笑声に替わった。
けっ、けっ、けっ。節をとる風であって、全く関わらずに左の手が振り翳された。一本、人さし指が伸びたのは、鉾を真似てのことだろうか。
落僧殿──
手出しをするなと言われた。死にたいのだ、と。このまま見ていれば、あと五つも数える前に現実となる。
手出しをすれば、鉾を向ける。それ自体は怖れるものでない。だが、それほどの覚悟に、どう向き合っていいものか。
松尾には、答えが出せなかった。
「あああっ、茨木童子! 落僧殿は武士ではない! 私が武士だ!」
ゆえに、考えるのをやめた。
「鬼が怨みで為ると言うなら、なぜ殺す! その怨み、私が断ち切ってくれる!」
右の肩上に
「おまえがぶし?」
へへえっ。溶けて崩れる嗤いが、落僧を押し倒した。膝突きで再び立とうとするものの、身体の自由が利かぬらしい。
童子は落僧のことなど忘れたのか、あっさりと松尾に向き直った。そしてまた、低く肩を沈める。
「きぃやあぁっ!」
歓喜が突き抜ける。動きに沿わせた刃を滑るように、間近を冷たい突風が行き過ぎた。
見えなかった。
およそここを通ったというだけで、茨木童子はどんな姿勢でいたのかが。触れたはずの太刀が、どこを斬ったのかも。
「ぶぅしぃ」
向きを変える茨木童子に傷は見当たらない。すると爪でも磨かされたということか。
「遊ぶなよ。私は真剣なんだ」
「ぶし、ころすぅよぉ」
童子が跳ぶ。放たれた矢を避ける試みを、松尾は左と読んだ。細かな動きは見えずとも、およそ過ぎる頃合いは計れた。
あまりに素直な、まっすぐの動きだ。まず突進を避け、先に振り上げた太刀を下ろす。
どこをかは分からずとも、間違いなく斬れる。
「愚か者!」
どっ、と感じた衝撃は真横から。完全に身体の軸を飛ばされ、松尾は床を転がった。
落僧に突き飛ばされた。それは見るまでもなく、声で明らかだ。
「落僧、殿──?」
回転を使って立ち上がり、振り返る。数拍前の松尾と入れ替わる位置へ、落僧は居た。見ると同時、崩れ落ちたが。
「落僧殿!」
駆け寄る。
既に悟った、もう無理だと。右の上腕半ば、失っていたのだから。
助け起こす暇はない。まして血止めをしたとして、これまでが多すぎる。
けれども松尾に、見ぬふりはできない。
「せ……拙に」
「落僧殿、しっかり」
袖を破り、落ちた腕先を縛る。美しいと言っても良いほどの、鮮やかな切り口を。
「拙に、また人を殺させるのか」
「人を? なにを言ってるんです」
「もう嫌だ。怨むのも、怨まれるのも……」
たしかに開いた落僧の目が、どこをも見ていない。「落僧殿!」叫んでも、もはや言葉にならぬ声が落ちるだけ。
「しんだ? しんだ?」
けたけたと嬉しそうに、茨木童子は揺れる。舞うようでいて、少しずつ距離が詰まる。
「私は」
松尾はそっと、落僧を床に落ち着かす。太刀を握り直し、ただの稽古のごとく上段から振る。
最後の言葉を聞いてやれないかも。落僧に頭を下げ、太刀先を茨木童子に向けた。
「誰も殺させない、誰も怨みに堕とさない。そう願ったんだ」
二歩、三歩。これ以上、落僧を傷つけぬには何歩の距離が必要だろう。
「ころさ、ころせ、ころっ、ころすぅ」
「なぜ邪魔をする」
これは会話なのか。どうでもいい疑問だが、結果として二十歩ほども離れられた。
あとは己にできる最大を行うのみ。松尾は静かに眼を閉じ、膝を折った。
身体の
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