第52話:酒呑童子(十)
「白い髪の」
十間近くの距離を巨体が跳んだ。そのさまは頼れる男、金太郎に重なる。
だがその金太郎より、半身分も高い背丈。それでいて胴回りは半分。
「青白い鬼──茨木童子か」
顔料でも塗ったような、不自然に白い肌。その下へ浮く死斑の青は、松尾に盃浦を思い出させた。
白波の砕ける海。垣間見て、己の頬にひと筋の熱いものを感じる。
「でもなぜ」
青白い鬼は、右の腋から体液を流した。赤黒い泥が重く垂れ落ちるのを、さすがに血と認めづらい。
あれが海なものか。
瞬間の幻惑から覚めれば、やはり鬼だ。袖の破れた、茜色の筒袖から伸びた腕は丸太のごとし。脚など大樹の根と見紛うばかり。
「松尾太郎だったか? どうやって来た」
視界の外からの声。そこに誰かあることまでは見たが、しかと顔をたしかめてはいなかった。
「あなたは。落僧殿」
「うむ」
あらためると、取り落としたらしい鉾を拾うところだ。そもそも
無論、傷は衣服に留まらず、血に濡れぬ箇所が見当たらない。三十そこらの髭面も、大きな引っ搔き傷に抉られた。
「お前は、茨木童子に呼ばれたのではなさそうだ」
「呼ばれた? 茨木童子?」
落僧の乱れた息の中にも、誤りなく茨木童子と言った。
あの鬼を見知っているのか、呼ばれるとは。疑問と同時に、話す猶予などなかろうにと口が早まる。
「あせるな。もうお前を、覚えてもおらんさ」
そんな馬鹿な。欠片も油断を抱くことなく、松尾の意識は茨木童子を真ん中へ置き続ける。
しかし言うとおり、青白い鬼は戻ってこようとしない。地団駄を踏み、当たるを幸いという
「知ってるんですか」
「知らぬ。都を訪れてこちら、酒呑童子と茨木童子のことばかり聞き回っただけだ」
「それでそこまで?」
たまたま聞き及んだに過ぎない松尾とは違うらしい。荒二郎言うところの大鬼に、まるで会いたかったかの言いぶりだが。
「それはそうだ。できれば酒呑童子、でなくとも茨木童子。どちらかの鬼と相対すために
「本当に会いに来たと?」
今はそれどころでない。が、落僧が話せば話すほど、不明ばかり増えていく。ただこれは、あちらも同じだったようだ。「それより」と面倒げに声が低められた。
「拙は十五、六番目といったところか。一人ずつを呼びこみ、
茨木童子が蹴り、投げ飛ばす躯は新しい。鎧を纏う者、腰に鞘を遺した者。顔は知らず、今宵集った武士達と見える。
「今一度。このどことも知れぬ場所へ、いかにして来たのだ」
長い鉾の柄に、落僧は縋って立つ。
無理はない。致命傷でなくとも、体力を根こそぎ奪うだけの血が流れている。
「それが、鬼の気配を斬ったというだけで。ここから逃げる方法はさっぱり」
「分からぬ、か」
ふっ。と小さく笑い、落僧は鉾を腰に構える。危うく転げそうになったが、どうにか堪え。
「いや、その身体では。相手なら私がします、どうやって逃げるか考えましょう」
「逃げるとは、思いもよらぬ」
落僧の肩が、松尾の胸に圧しあたる。咄嗟に、支えようと出した手が弾かれた。
「拙は
「それは……」
柄尻を突き、茨木童子へ向かい歩む。静かな堅い声が、互いを隔てる一枚の岩を松尾に見せた。
「うむ。手出しなどしようものなら、この鉾先がお前に向くと思え」
どっ。どっ。どっ。
それは松尾の動悸だったろうか。それとも床板の
おそらく、胸の鼓動でもあった。しかし落僧の、期待を溢れさせた歓びの。証拠に、ちらと振り向かせた口もとが、にやり笑った。
「落僧殿!」
松尾が叫ぶと同時、落僧は床を蹴った。今まで手足を揺らしていたのは、まさか芝居と疑うほどに鋭く。
「あはははははははは」
嗤う。高く、耳をきんと衝く茨木童子の声。手にした武士の亡骸を放り、血の色の瞳を喜色に塗り替えた。
跳ぶ。三間はある天井のすれすれを、落僧の移動した頭上へ。
たたたっ、と。落僧の足踏みを繰り返すような、初めて見る足捌き。頭を割られたと見えた次の一歩で、茨木童子の背後から突く。
「さあ、茨木童子とやら。生前のお前は、どんな姿をした。なにをして、なにをされて、そのような醜い怨みに墜ちた」
「ィッ──ィバラァ?」
「違うのか? 誤りと言うなら、名乗れ。あの世への道行き、なまぐさで悪いが拙僧に案内させよ」
けたけたけたと、耳を塞ぎたくなる高音が響いた。茨木童子の指先が、短刀にも似た長い爪が、落僧へ向く。
にたり。にたり。細い顎がぱっくりと開き、並ぶ牙を剥き出しにする。
「あぁっ、あたしぃはあ! いっ、いばらぁきぃぃぃどぉぉじぃぃぃ!」
人の言葉だ。到底、偶然に聞き取れたようなものではなかった。
酷く、ひたすら甲高く。「狂って──」松尾の喉を詰まらせるほどに悲しい音色であったけれど。
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