第49話:酒呑童子(七)
勧められるまま、松尾も酒を飲んだ。出された肴は分厚い肉を持つ魚で、おそらく鯉。
「骨など、取らせなくともよろしいですか?」
扇を隔てた乙姫の声を、耳で聞くだけでは誰へのものか分かりにくい。まさか、と松尾は膳に向けた目を上げた。
優しげに弧を描いた眼が、こちらを見ている。「あっ、いや」などと慌てて、箸を取り落とした。
「代えの物を」
お付きの女に乙姫が言い、すぐに別の箸が運ばれた。
「あ、ありがとうございます。魚はどうにか、食べ慣れていますし」
「左様ですか。差し出がましいことを、申しわけありません」
なぜ自分にだけで、金太郎には言わないのか。不思議に思った松尾だが、隣の膳を見れば一目瞭然。
巨漢の男は箸をも使わず、開いた口の上で椀をひっくり返す。飯と、最後に残っていた汁も。魚の皿は、とっくに骨もなく空だった。
気の回る人だ。
金太郎の母を思い出し、松尾も知らぬ摂津の土地で大丈夫だろうかと案じる。いつも優しく、ずっと笑っている人。
乙姫は笑っているようでいて、そうは見えなかった。
──池田中納言邸を出たのは、既に真夜中というころ。送り出した家人に、頼光は呂律の回らぬながらも「やっ、あるが、ありがとう!」と、礼を忘れない。
「随分と飲んだんですね」
通りを一つ越えてから、千鳥足の頼光に機嫌を問う。もしも酔い潰れる寸前のようなら、自身で歩かせるのは危ない。
という松尾も、手足に濡れた手拭いを被せたような感覚があった。今、手練に遭えば逃げるにも下手を打つやも。
「そうでもないぞ、一升にも足らん」
酒にふやけていない、頼光の常の声。右と左に別れていきそうだった足が、しゃんとまっすぐ動く。
「演じてたんですか」
「もてなしに酒を飲ませて、気持ちよく酔ってくれる客が可愛らしかろう?」
「はあ、そういうものですか」
分かるような気はした。小さな盃に四、五杯の松尾には、一升のほうが分からない。
「言っておくが、儂は刀はからきしだ」
「先に言ってもらえると助かりました」
夜道であっても、幸いに大内裏と近いところばかり。どうにかなるだろう、金太郎まで酒にやられていなければ。
先を行く頼光から目を離さぬよう、普段と変わらぬ足運びの大男を窺う。
「ん?」
「いや、平気そうだと思って」
「少しは酔ったぞ。飯も酒も旨かったからな」
籠提灯に照らされても、赤みは見えない。どれほど飲んだか知らないが、頼光と同類に考えた。
「おらより松尾丸だろ」
「うん、悪い。それほど飲んだつもりじゃなかったけど」
「そうじゃない。酒でないもんに酔ったってんだ」
珍しく、わけの分からぬことを言う。金太郎も、いささかには酔ったとみえる。
次にどんな面白い言葉が聞けるか。松尾は噴き出し、「ええ?」と先を促した。
「惚れたんだろ、乙姫ってのに」
「ほれた?」
中納言邸に穴などあったか。それとも木像でも。いや、魚の骨を捨てたという話か。
松尾に思い至るのはそれくらいで、いずれも乙姫には関係がない。
「そう見えたのか」
「違うのか、ほとんどずっと見てたけどな。川の鳥が魚を狙ってんのかと思った」
「ええ?」
惚れた、らしい。
今度は真面目に首を傾げる。酔う前と酔った後、振り返ったがいずれにせよ記憶が曖昧だった。
どこを切り取っても、視界の真ん中に乙姫がある。ほかの記憶は、どこへなくしたやら。
「まあ、どっちでもいいや。もし、どうにかしようってなら、人妻になる前にしろよ」
「しないしない」
そんなつもりは。という以前に、惚れたつもりがなかった。
金太郎は「そうか」とだけで、もう問い重ねることをしない。距離の離れかけた頼光に、二人して追いつく。
渡辺源次が戻ったと聞いたのは、それから三日後の昼。すぐに訪ねるのを控え、松尾は夕餉の前に戸を叩いた。
「お邪魔をします」
松尾と同じ平屋の最奥に、渡辺源次の部屋もある。「入れ」と言われて従えば、広さも松尾と同じだった。
違うのは文机があるくらい。加えて今は、松尾のほかに客があった。揃いの狩衣でなく、筒袖と括袴を着た、初見の男。
「あっ。本当にお邪魔を」
「いや、構わん。終わったところだ」
座して対面していた二人が立ち上がり、知らぬ男のほうが頭を下げて部屋を出る。ふと見ると、腰に差さるのは脇差が一本だけ。
「なにか」
「いえ、その。勝手な願いを備前守にしたもので」
「羅城門の件か。構わぬ、嫌なら嫌と公は答える」
それだけで、松尾の用は終わった。だが先客を追い出した恰好で、すぐに出ていくのもためらわれた。
「まあ座るがいい。ついでと言っては悪いが、話もある」
「はあ」
言われるまま、腰を下ろす。しかし渡辺源次は、しばらくなにも言わなかった。
なにか叱られることがあったか。胸に手を当てても、思い当たるものがない。強いて言うなら、乙姫のこと。
金太郎の言うとおりなら、じろじろと不躾に見ていたことになる。
「あの──」
「そろそろいいか」
声と声がぶつかり、「ん?」と互いに視線で問い合った。
「いえ、どうしたのかと」
「うん。今ここへ居た男、どう見る?」
「どう、ですか。私と同じ背丈にしては、かなり痩せていたような。それだけ身軽なのかもしれませんが」
気になったのは腰の脇差だが、他人の手の内を探る真似は避けた。
「よく見ているな」
「それほどでは」
「うん、まあ──見たものを忘れろとは言わぬ。見たからにはよく覚えて、なるべく関わらぬがいい」
戯れの謎かけだろうか。などと勘繰るくらい、なにを言われたか松尾は理解に苦しんだ。渡辺源次と話していて、初めての経験だった。
「ええと。どこか近場と聞きましたが、源次殿が誘いに行った方では」
「そうだ、どうしてもと備前守が言うのでな」
「するとなにか、気に食わないことでも。また実戦で見極められるのでしょう?」
頼光の願いで連れ帰ったはいいが、腕が悪いとか気性に問題があるとか。そういうほうに当たりをつけた。
ならば松尾と金太郎と同じく、鬼と戦わせて最後の決断をすれば良い。
「いや、腕に問題はない。切れすぎるほど」
「はあ……」
「うん、余計を言った。お前には先に言ったとおり、なるべく関わるなというだけだ」
やはり分からない。けれども渡辺源次は、これ以上に語らなかった。
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