第48話:酒呑童子(六)
「さて
前置き、池田中納言は「誰ぞ」と呼ぶ。三つ数える間もなく現れた
「おお、乙姫。今年はお目にかかっておりませんでした」
「うむ、実はようやく婿取りが決まってな。ここ半年ほどは、人前に出しておらなんだ」
「なんと、これは中納言もお人が悪い。なにをさておいても、それを教えていただかなければ」
夕餉が晩の飯を意味することは、松尾も知っていた。頼光の屋敷の、世話係の少年に感謝せねばならない。
しかし頼みごとに来て、飯も喰らって帰るのか。違和感とまで言わぬものの、面食らった心持ちを否定できなかった。
その上に、乙姫というらしい知らぬ人間まで呼んで。そろそろ見廻りの準備をしなければと、焦る松尾の指先がひとりでに膝を打つ。
当然に、誰も松尾の気持ちを汲んではくれない。色付きの明障子の側に几帳が運び込まれ、遮られた向こうにやがて誰かが座った。
なにをも言葉のある前に、弦を弾いた音色。
これほど近くで聴くのは初めてだった。聞くとはなしと違い、強く奥行きのある、どこかもの悲しい音。
合間に時折。至極、小さな声が「はっ」と届いた。姫と言うのだから女に間違いなく、やがて男ばかりとは異なる香りが漂う。
なんの匂いかな。
穏やかな箏と、どこか懐かしいような芳香。知らず松尾は眼を閉じ、一曲の終わりまでを享受した。
「──これは。相当に腕を上げられましたな」
「ありがとうございます、備前守さま」
最後の一音が消え、誰もがひと息を吐いたあと。頼光の称賛に、細く張りのある声が返った。
「のう、松尾太郎。公時。乙姫を妻とする方は幸せ者よ」
「はあ、まあ」
突然に感想を求められても、返事とも言えぬことしか松尾は発せなかった。声さえない金太郎は、知るかと切り捨てるのを堪えたのだろうが。
「ご婚姻がお決まりとか。おめでとうございまする」
「お、おめでとうございます」
頼光の祝いの言葉は、倣えと合図があった。金太郎はもごもごと、口の中でなにかは言った。
「乙。こちらへ来て、直に礼を」
「かしこまりました。父上」
言ってすぐさま、たくさんの布の擦れ合う気配。それでいて乱れたものでなく、目で見ぬでも落ち着いた所作が伝わった。
「備前守さま。お初にお目もじのお客さま。お褒めのお言葉、祝いのお言葉。恥ずかしながらも、ありがたく頂戴いたしました」
扇で顔を隠した乙姫が、几帳を回り込む。中納言の脇で止まり、お付きの女が着物の裾を整える。
空の蒼。海の碧。その間の色味を重ねた、美しい着物。墨に浸して上げたばかりのような、艶とした黒髪は、束ねてなお床までついた。
「池田中納言が娘にございます」
ゆっくり。ひたすらゆっくりと、雲の沈むがごときに乙姫は座った。まま、木目に吸い込まれるのではと危ぶむほど深く頭を下げ、やがて凛と背を伸ばした。
「乙ももう十六が目の前よ。今年のうちにどうにかと気を揉んでおったが、
「それは良いご縁でございます。両の家が栄えること、間違いございませんな」
頼光が答えれば、中納言はまんざらでなさそうに笑む。松尾はもとより、羅城門の影など、もはやどこにも見えない。
備前守が問題にしないのなら良いのだろう。そう思い込むことにした。
それにしても、と松尾は乙姫を眺める。
数歩の距離に女が居るのは、金太郎の母以外には何年もなかった。ゆえに思うことは、初めて見る鳥や魚に似た。
ああ、若い女とはこういうものだったな。都の女は、中納言の恰好に輪をかけて歩きにくそうだ、と。
盃浦の若い女というと、二十より上か十より下だったが。
──あ。
気づいて、息を呑む。声も漏れそうで、口を押さえた。
「ささ」
二つ年下と言えば、あの銀髪の少女と同じ。生きていれば、こんな風に成長したのかもしれない。
喉の奥へ、熱い塊が込み上げた。
必死に飲み下そうとする中、扇越しに乙姫と視線が合う。不審にならぬよう、そっと口から手を外す。笑って見せる努力もした。
なぜか、乙姫の眼が悲しげに曇る。
「これで来年、さ来年の
「ふふ、大それたことを言うな」
ちょうど運ばれた酒を、頼光と中納言が酌み交わす。それを眺める乙姫は、いつの間にやら微笑んだ。
どうした?
ささと同じ歳というだけの。眼だけを見ても、似ても似つかない。
それでも。見間違いかもしれぬ憂い顔を、松尾は忘れることができなかった。
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