第45話:酒呑童子(三)

「構いません。と言うより、助かります」


 答えるのに、少しの思考は必要だった。


「へっ?」

「金太郎が私に、逃げろと言ったことはありません。私も金太郎に言うことはないです」

「そ、そりゃあ大した自信ずら」


 虚を衝かれた風の荒二郎だったが、すぐに皮肉めいて口角を上げた。


「いえ、逃げる時は逃げます。そうでないと足柄山で死んでいたと思います。自分の勝てる相手、二人で勝てる相手を、見極めないことには」


 逃げて、仕切り直して勝てなかった例は、幸いにない。鬼にも山賊にも、渡辺源次のような相手が居なかったからだ。


「そもそも私達には、どんな時に荒二郎殿が逃げるべきか分かりません。ですから自分で判断すると言ってもらって、助かります」

「へえ」


 荒二郎の声は、得心したものでなかった。どこか馬鹿にしたような、苛々したような、不満めいた色が見える。


「できれば源次殿に状況を知らせてもらえれば、言うことはありません」

「んだな。どころか邪魔するような真似したら、おらが叩っ斬るけどな」


 先達に、勝手に逃げろと告げたのだ。あちらの言い出したことと言えど、なるべく穏便な方向へ修正しようと松尾は試みた。

 最後に金太郎が加えて、思惑とは真逆に終わったけれども。


「よく分かったずら。いや、そもそもっちゅうなら、一人で逃げるなんて言ってないだにい。ほれでも、そっちが言うだら言うこと聞くずら」


 からからと、荒二郎はわざとらしく声を上げて笑った。以降も見かけには機嫌良く、馬運びの話など尽きない。


「馬の骨は大きいだけで、人と同じずら。だぁら足とか腰とか痛い時、あたしが揉めばすぐ治るべ」

「効きそうですね」

「効くよぉ。なのに備前守も源次殿も、痛いとこねえって言うだがね」


 鬼も賊も出遭わぬまま、八条の先まで下った。耳を澄ませたとて、争いの音も響かない。

 朱雀大路へ戻ると、纏わる黒煙のような視界の奥に羅城門が見えた。光を拒むかに、黒より黒く浮かび上がって。


「なにか名案でも思いついたんかい? 誰も死なねえ、罪も犯さねえ。そんなことあるんかっちゅうて、あたしには分かんねえけどさぁ」


 じっと見つめていたせいか、荒二郎が問うた。飢えや病、鬼と賊に家族を奪われ、留まる場所も失くした者の溜まる場所。


「先ぃ言っとくけど、入ってみようっちゅうんは勘弁してほしいずら。鬼の巣って話もあるだにい」

「──触れるなら、そのつもりでってことですね」


 構造も不明な建物に、用意もなく近づけない。正面から向かえば問題ない相手も、頭上から降ってくるとなれば話が違う。

 つまり構造を知り、対処できる態勢を整えれば触れられる。


「今日は近づきませんよ」

「勘弁するずら」


 通り過ぎるしかない。分かっていても、後ろ髪が引っ掛かる。煤けた朱柱に、先を結わえられた思いを松尾は抱えた。

 見て見ぬふりをしたくとも、この辺りはどこも躯が転がる。


「どうして晒したままなんでしょう」

「ほかに、どうしろっちゅうん? 世話するもんが居たら、町の外へ出すくらいするべがなぁ」

「居ない、んですよね……」


 人だけでなく、修繕の追いつかない建物も目立つ。歩いてもさほどの距離というのに、貴族の屋敷とは比べるべくもない。


「鬼の触れた死体は穢れが移るっちゅうて、誰も関わらん。その死体のある家もずら」

「だからですか」


 穢れとはなんだろう。どんな不都合があるやら、松尾には理解できなかった。そんなものがあるならば、松尾も金太郎もどれだけ溜め込んだことやら。


「だから、増えるばかりなんだ」


 ああ、そうか。これほど簡単なことを、なぜ気づかなかったか。己の愚かさを松尾は呪う。

 目の前の躯に手を伸ばす。乾ききった肌が、枯れ葉に似た音を立てた。


「お、おい。どうしようっちゅうんだ」

「穢れるんでしょう? だから人が近づかなくなる。だから鬼も賊も棲処が増える」


 背負って運ぼうとしたが、固まった躯はおんぶの恰好をしてくれそうにない。仕方なく横抱きにすると、金太郎も別の躯を持ち上げた。


「運ぶのか?」

「うん、昨日のところへ」


 躯の顔は腐り落ち、男女の区別はつかなかった。ちょうど荒二郎と同じような背丈で、すると男だろうか。

 どうであれ、躯は軽かった。やろうとすれば片腕で、悠々と運べる。それはこの人を軽んじる気がして、松尾にはできなかったけれど。


「おい、そんなのは見廻仕の仕事じゃねえべ」

「やっていけないとは聞いてません」

「そりゃそうかもしれねえけど。見廻りできねえずら」


 文句を言いつつ、荒二郎は着いてくる。今この時に鬼と出くわしたら、先んじてくれるか。

 荒二郎が逃げたとして。この躯には悪いが、地面に寝ていてもらえばいい。


「ずっとじゃありません。何人かだけでも」


 今宵、金太郎と五、六人を運んだとして。十日続ければ五十人を超える。数えてはないが、千も万もあるわけでなかろう。

 たったこれだけを、なぜ誰もやらないか。

 鬼の穢れとやらに勝てないからだ。


「私はきっと、これも見廻仕の仕事と思います」

「あたしは勘弁してもらうずら」


 言うとおり、荒二郎は躯を運ばなかった。

 それでも鳥辺野の墓地に運び込み、また手近な躯に戻る。その往復には連れ添った。

 都合、欲を掻いて八人を運んだ。昨日の子供の鬼達と、鉄棍の男の隣へ。

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