第43話:酒呑童子(一)
床が温もるのを待つまでもなく、すぐに現実から逃れられる。という目論見と裏腹、松尾の意識は残った。
まぶたの裏の暗闇に、外道丸とささの顔が浮かぶ。気にすまいとすれば、盃浦のほかの子らまで。
そのくせ、居直ってあれこれ考えようとしても纏まらない。ぼんやりと、壁から伝わる外の音を聞くような聞かぬような。そうしてずっと、ただ寝転んだままのつもりで松尾はいた。
「おい松尾丸。おいったら」
「ん……」
ふと気づくと、金太郎の声。眼を開けようとすれば、泥でも塗り込んだかに重い。
「よく寝てたな」
「ん、寝てたのか」
「寝られなかったのか?」
「よく分からない」
足下へ仁王立ちの金太郎が手を差し出す。握り返すと、ひと息に引いて立たされた。
「主殿が呼んでるってよ」
身体の芯がどこだったか、松尾が探すのには少しの時間がかかった。ふらふらしつつ着いていくと、表が薄暗い。
実感もないというのに、夕刻近くまで眠ったか。驚いて見上げれば、天を厚い雲が覆う。
それでいて、ところどころの薄い場所に陽が透けた。およそ中天、ちょうど昼時だった。
「すっきりしないな。降るなら降れってんだ」
金太郎の舌打ちに、松尾は答えられない。葬ってきたばかりの躯を思えば。「うぅん」と、肯定でも否定でもなく唸った。
──頼光は、昨日の外縁の部屋に居た。脇に渡辺源次を控えさせ、当人は文机に向かう。
「うぅーん」
明らかに松尾より深刻そうに呻き、見つめるのは文机に置いた紙。
正面に座っても、こちら二人には声もない。渡辺源次も同じくで、急ぎのなにかだろうと察して待った。
当然にやることもなく、頼光をじっと見つめ続けるのもどうかと視線を泳がす。すると文机の下へ、丸めた紙が落ちているのに気づいた。
藍の色付きだが、文机にも同じ色の台紙が敷いてある。軸がないので巻物ではなく、壁に貼りつけでもするものらしい。
「よし決めた!」
目の覚めるような声。いや松尾は寝ぼけてなどいなかったが、なにごとかと目を見張った。
頼光の手が、滑らかに筆を走らす。松尾に字の巧拙は分からないが、繊細で美しい気がした。
「
書を掲げ、誇らしげに頼光は言った。しかし字を解さぬ松尾には、それがなにやら確信が持てない。
「ええと、その。松尾と聞こえましたが、もしかして私の?」
「うむ。松尾丸を改め、浦辺松尾太郎季孟。良い名だと思うが、気に入らんか?」
眉を寄せた頼光の目が、自身の書面をなぞる。拗ねたようでもあって、文机の下を思うと、すぐに良いと言いたかった。
しかしなんだか分からぬものに、下手な返答もできない。困って右往左往させた目を、松尾は最後に渡辺源次へ向けた。
「備前守。その名の由来を聞いても?」
「おお、それはそうよな」
ぱっ、と。頼光は顔を輝かせた。思わず松尾も安堵の息を吐く。
「まず浦辺。お前はどうにも海を愛しておるようだから、故郷の景色をそのまま使った。その次の松尾太郎は、言うまでもないな」
そこまでの話をしただろうか。頼光にだけでなく、渡辺源次との会話も思い出し、松尾は首を捻る。
「季孟の季は、ものの終いということ。反対に孟は、全ての始まり。物ごとを最初に始める、優れた者という意味もある。新しきことをやりたいのだろう?」
渡辺源次をちらりと見て、頼光は笑む。
「今朝方の……」
偉そうに言ったが、これをやると決めたことの一つさえなかった。どころかたった今まで、呑気に寝こけていた。
頷く主従に返せるのは、赤くした顔のみ。
「私はまだ子供です。松尾丸というのも借り物の」
武士の子なら、勝手に松尾丸になる。お頭がそう呼んだだけで、武士の子ではない。文殊丸になれるとも、なりたいとも思わない。
だが、ここへ居るのも約束による。頭を下げるほか、どうしていいやら見当もつかなかった。
「借り物のなにが悪い? 人の名とは、枡のようなものだ。誰の持ち物だろうと、そこにあれば中身が正しいと信じられる」
書いた紙を置き、頼光の手が四角を作った。枡と言うなら、一合ほどの。
「枡、ですか」
「そう、お前にどれくらいが見えておるのだろうな。持て余すのだ、五合か、一升か」
段々と大きくした枡が、ぐうっと飲み干すように傾く。ご丁寧に口もとを拭い、頼光は「ぷはあっ」と息を継いだ。
「枡にぴったり合わぬだけで、誰も不実とは言わん。枡を使う者に満たすつもりがないと見抜いて、誠実にやれと人は怒る」
町の市で、たしかにそういう光景はあった。枡の縁より盛り上がったものに文句を言う者はなく、少し足らずとも笑い話になる。
けんかになるのは、狙って得をしようとする者だけだ。
「はあ」
「儂の用意した枡など気に入らぬ。そう言うのでなければ、使ってみれば良い。お前の身に合わなければ、足りるまで育てば良い話だ」
頼光を気に入るかどうかとは関係がない。けれども、そこを外して聞けば頷ける。
「いつか、やはり我慢ならぬとなれば返せ。持っていようがいまいが、どうせ親しい者は馴染んだままを呼ぶ」
「ああ。おらは今さら、松尾太郎とかしゃらくさいや」
「わはは、だろうとも」
容赦のない金太郎をも、頼光は笑い飛ばす。武士と言って、そうまで違うものか。
誰も彼も文殊丸と同じでない。と理解はしていても、やはりどこかで訝る心が松尾にはあった。
「それにもう一つ。下にある者が名を改めておらんのは、恰好がつかん。儂の世間体だ、付きあわせて悪いと思うが」
この人は違うのかも。武士を信じるのは無理だが、どこまで付きあえるか見てみたい。
おそらく気紛れの類だろうがと自覚しながら、松尾は背を正した。
「分かりました。そこまで言ってもらえるなら、お借りします」
「うむ」
頼光は口髭を撫でつつ、はにかむ少年のごとく笑った。
「で、ここまでが松尾太郎にやると言った件。ここからは公時もだ」
「なにか、おらにもくれるのか?」
名を書いた紙が、松尾に渡された。それと入れ違う形で、金太郎の手が突き出る。
「やるにはやるが、物ではない」
「なんだ、つまらん」
「まあ聞け。今日から大部屋でなく、一人ずつの部屋を使って良い」
金太郎の態度が目新しいのか、頼光は噴き出しそうになっては噛み殺した。顔を顰める渡辺源次にかもしれない。
「それなら、もう貰った」
「なにっ?」
声も高く、問う視線。受ける渡辺源次は顔色一つも変わらなかった。
「見極めはそれがしに一任されておりますゆえ」
「ま、まあ、そうだが。役どころは伝えたのか」
「いえ、それは僭越というもので」
なにやら声を上ずらせた頼光だったが、「そうか」と持ち直した。
「坂田公時、浦辺松尾太郎、お前達に番外を申しつける。一人部屋がその証だ」
「番外?」
重々しく言われたものの、松尾も金太郎と同じく問い返すところだった。「なんだそりゃ」とまでは加えないが。
「毎晩の見廻りを行うのは聞いたな」
「聞いた」
「毎晩と言って、休息がなければ壊れてしまう。ゆえに当番を組み、休みの日を持ち回しておる。お前達は、その当番に入れぬ。必要な時に休み、必要な時に動け」
なるほどと首肯をし、同時に昨日の大部屋が思い出された。
馴染んで見えて、せいぜいひと月程度の先達。それはつまり、見極めとやらに適わなかった者達。
「またその代わりとも言わぬが、知っておかねばならんことがある」
これまで松尾の抱いた頼光の印象を、ひと言で表すなら。ざっくばらん、が相応しい。
そのとおりの前置きに「それは?」と問い返す。途端、切れ長の眼が似合いに吊り上がる。
「服ろわぬ者どもの総大将。
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