第41話:源頼光(八)
通りで言えば五条と六条の間。小路を作るのは長屋でなく、貴族の屋敷。土塗りの
だというのに鬼はおろか、先の三人組の姿が見えない。腐臭は辺り一帯を覆い、もはや近くとしか判別がつかなかった。
走る途中、一輛の
渡辺源次によれば「見知った顔がある」と。貴族の男が目当ての姫を尋ねる夜歩きがゆえに、怪しむ理由はないようだった。
「さっきの三人か子供の鬼か、見てるはずだな」
言うより早く、金太郎は問いに動いた。だが上を行って素早く、渡辺源次が裾を掴む。
「よほどのことがなければ、あれは存在せぬものと心得よ」
「ああん?」
「暗黙の約束というやつだ」
よほどとは、具体的にどんな場合か。「たかが夜這いのくせに」などと聞こえた声に密かに頷く。
せっかく止めた足が無駄に終わった。舌打ちの間も惜しみ、もとより向かっていたほうへ足を向け直す。が、踏み出した足を一歩で止める。
「どうした」
続こうとした渡辺源次も、さすがぴたりと動きを止めて問う。
「いえ、ちょっと。高い塀ばかりで思い込んでいましたが、中へ入ることもあるのかと」
「鬼は戸を開けん」
「でもあの牛車の主は、近くの屋敷に入ってるんでしょう?」
それはどういう──までで、渡辺源次の声は止まった。すぐさま、狩衣が翻る。もと来た道を疾駆する足に、松尾はじりじりと離されていく。
しかし思ったとおり。通り過ぎてからさほどの間もない屋敷の門前に、また一輛の牛車が見えた。
「ひっ、ひいぃ!」
男の悲鳴、と同時に閉じた門扉を打つ音が激しく聞こえた。
閂を圧し折り、飛び出た男の手には鉄棍。数は一人。
「鬼を見つけたのだな、
「ひっ、ひっ、ひぃっ」
男の胸ぐらを鷲掴みに、渡辺源次は叫んだ。取り乱した男へと言うには、あまりに過分な声量で。
「越前守が家臣、渡辺源次。鬼の御用により御免仕る!」
渡辺源次は輪をかけて大きく喚き、鉄棍の男を引き摺りながら敷地へ入った。破られた門の周囲に人の姿はない。屋敷の奥のほうで、ようやく物音が聞こえ始めていた。
「ひっ、いやっ、ひいぃ」
「我らが来たのだ、しゃんとせんか!」
平静の戻らぬ男に、平手が喰らわされる。首を折るつもりかというほど遠慮なかったが、おかげで男の悲鳴はやんだ。
「お前の連れはどこだ。案内せよ」
「はっ、はいっ」
泣きべそを啜り、男は走った。ひょこひょこと頼りなげながらも、方向を迷う様子はなく。
「越前守が見廻仕、御用にて候!」
繰り返される渡辺源次の声に、あちこちから「鬼か」「鬼だ」と聞こえる。
次いで建具を動かす、けたたましい音。見える建物の外縁が、格子付きの板で閉ざされていった。
池のほとりに、松やら梅やらが不自然に並ぶ。その間を抜け、建物を繋ぐ廊下をくぐり、男は止まった。
「そ、その先に」
震える指が、漆喰壁の角を示す。たしかにそちらから、泥田を踏むような気配がした。
「ご苦労」
太刀を抜き、渡辺源次は無造作に進んだ。鉄棍の男は引き攣った笑みを浮かべる。
「ああ。もう一つ、お前に仕事があるのだった」
追い越してから、渡辺源次は振り返った。男もまた振り向き、かと思えば短く唸る。
「くぅ……」
「源次殿!」
思わず、松尾は叫ぶ。大上段からまっすぐ、渡辺源次の太刀が唐竹に落とされたのだ。倒れた男に駆け寄っても、手の施しようがない。
顔の真ん中、鼻を左右へ分けるように切り口がある。頭蓋の手前半分も切断され、血液の混じった透明な液体が夥しく流れ出す。
「鬼を追って入り込んだが、返り討ちに遭った。これならば言いわけが立つ。我が主の顔に泥を塗って、
そこまでするのか。好意などと欠片も覚えぬ男であったが、松尾は憐れに感じた。貴族の屋敷へ勝手に入ったのは重罪かもしれないが、殺すほどか。
突いた膝を、なかなか上げられない。
いけ好かない男だった。だから憤りとは違う、と判じられる自分をも汚く思う。男の示した角を折れる渡辺源次に、後ろから斬りかかるのはまして。
「貴族相手にやらかせば、どうせ死罪だ。鬼にやられたってことにすりゃ、反対に褒美が出る。受け取る家族とか、そいつに居るのか知らないけどな」
松尾の肩を叩き、金太郎も渡辺源次の後へ続く。
頼光だけでなく、鉄棍の男の名誉をも守った。言われてみれば、それも間違いなくあるだろう。
けれどもすぐに呑み込めるほど、松尾の分別は育っていなかった。
漆喰壁の向こうに、二人は消えた。早く来いと、誰も言わない。
倒れた男の眼を、松尾は閉じさせる。
「手が届くから」
男への言いわけであり、己への言いわけであった。太刀を抜き放ち、松尾は立つ。
血糊を払うかに振るい、強く息を吐いた。
角を折れる。生まれ育った松尾の家が、六つも入りそうな袋小路。その一つの隅に、二人の子供がしゃがみ込む。
白い漆喰が飛び散った鮮血に汚れ、子供達は楽しげに泥遊びをする。汁の滴る泥団子を持ち上げ、叩きつけ、また持ち上げて捏ね。
渡辺源次と金太郎は、それぞれ三人と対した。幼くは四、五歳。長じても十歳に満たぬと見えるそれぞれに、一本か二本の長い突起があった。
「外道丸」
声に出してみようと、松尾は思った。絶対に、永遠に忘れられぬ出来事だ。
それなのに今、そこへ居る子供の鬼が外道丸ではないと自信が持てなかった。
「ささ」
近づくと、泥遊びの二人が顔を向ける。一方は死斑の青、もう一方は爛れた赤。
どう見ても、盃浦になかった顔だ。
「お前達は違う」
言って太刀先を向ける自分を、胸の内で罵った。
違うから。知った相手でないから斬っても良いのか、と。
「御免仕る」
こういう時の言いわけを、渡辺源次が教えてくれた。駆け寄ってくる懐かしい光景を、松尾は真一文字に切り分けた。
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