第39話:源頼光(六)
「おお、良いことを思いついた。
諱とやらはどうした。そう問う間もなく、頼光は奥へ引っ込んだ。と思うとばたばた賑やかしく、渡辺源次と共に板戸を出ていく。
やれやれとぼやきつつも、金太郎は腰を上げる。頼光らの姿が見えなくなって、松尾も「あっ」と追いかけた。
「松尾丸だったな。ずっと山育ちと聞いたが」
後ろへついた途端。振り向きもせず、頼光は訊ねた。肯定するのは簡単だったが、口篭った。
「──いえ。十の歳までは海の見えるところで」
「そうか。儂は山猿でな、初めて海を見たのが十の頃と思う。まあ今と変わらず忙しくしておって、のんびり見物とはいかなんだが」
貴族や武士ならばまだしも、生まれた場所を出る者は珍しい。
問われたら、どう答えるのだろう。我がことながら、松尾は今さらに考える。
「のう、公時。お前は見たことがないだろう」
あれ、と驚いた。金太郎が返事をしないことにでなく、故郷の話が終わったことに。
「公時。おい公時」
肩越し、渡辺源次が呼ぶ。しかし金太郎は都の街中へ戻る道を、つまらなそうに眺めるのみ。
「母のくれた名だろう。大事にせんか金太郎」
「あ、え。なんだ?」
「公時だ。坂田公時と呼んでおる」
声を強めたのは頼光。前を向いたままで、表情は見えなかった。
「なにか面白い物でも見つけたか」
「いや人は多いが、ほかに見えるのは家の壁と道だけだな。山ん中なら猿だの栗鼠だの、
それはたしかにという共感と、さすがに無茶を言うなと窘める気持ちと、松尾は両方を一度に覚えた。が頼光は、さも愉快げに「うははっ」と笑い飛ばす。
「それは悪かった。近くから順番にと思ったが、たしかに面白みがない。儂も源次に毒されたな」
備前守、と渡辺源次の苦い声を無視して、頼光は歩む方向を変えた。松尾が分からぬながら察するに、帝の住む大内裏の入口へ向かっていたのが、朱雀大路と平行に進む。
「どこかへ案内を?」
散歩と言いながら、仕事の話だろうと松尾は考えた。この街に出る鬼を見つけ、退治するのが役目だ。地理を知らぬではどうもならない。
「どこか、と問うたか。では答えは否だ」
謎かけのようなことを言う。だけでなく頼光は、厭らしく作った含み笑いを聞かせる。
どういう意味か、いくら首を捻っても松尾には分からなかった。また頼光も、教えてくれる気配がない。
「さて、この辺りなら面白くないなどと言わせぬぞ」
東西に走る大路を幾つも越え、
頼光は細い小路へ入り、なおも先頭を行く。右も左も一つ屋根を共有した長屋の続く中を。
「あら、らいこうさん! なにか入り用?」
「いやいや。今日は新しい者を案内だ」
軒先で、大
「よっ、らいこうさん! 湯でも飲んでいくかい? 今日はカカアも居ねえんで、遠慮は要らねえ」
次に声をかけた男は、開いた戸の向こう。手つきを見るに湯ではなく、酒の誘いと思われる。
「喜んで誘われたいところだが。いや、どうしてもと言うなら──」
「備前守」
「うん、すまぬ。用事の途中だ、またにしよう。きっと、必ずだ」
木屑だらけの土間へ、あわや頼光は入り込むところだ。渡辺源次に襟首を掴まれ、元の方向へ戻ったが。
それからも一軒ごと、ひと言以上の声をかけられた。誰も皆、頼光を「らいこう」と。
「どうだ公時。栗鼠も兎もおらんが、
「あん?」
「木を扱う職人のことだ。木地師という」
小路の一本を抜けきり、頼光は胸を張った。言葉遊びは置いて、たしかに面白い場所だ。少なくとも松尾は、ゆっくり時間をかけて見せてもらいたい職人の仕事が幾つもあった。
「なに言ってんだか分かんないけど、まあ面白いな。おらの鉞、締め直してもすぐ緩むんだが、直してくれんかな」
「なんだ、早く言え。さっそくやってもらうとしよう」
戻るかと思いきや、頼光は別の小路へ入っていった。どこだったかと探す様子もなく、鍛冶を行うらしき老翁の軒先へ。
当然と言うべきか。そこまでもその後も、出会う者の全員が頼光に声をかける。男も女も老いも若きも、子供でも。
──直しを終え、職人街を出るころには夕闇が迫っていた。「なんだ、東の街に行けなんだな」と文句を言いつつ、頼光は自らの館へ足を向ける。
南北の大路には、もう人影が消えていた。たまに見かけても、必死の形相で家路を急ぐ。
「染めること、木を削ること、鉄を打つこと。あれらは誰も、儂らにできんことをやってくれる」
悠々と歩みながら、頼光は言った。やはり先頭にあって、表情は見えぬまま。
「お前達の仕事は、うまく刀を振るうことだ」
常に楽しげな、今にも笑いだしそうな声。「儂はうまくない」という言葉が、戯れか否かも明らかでなかった。
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