第38話:源頼光(五)

 ひと跨ぎの堀を渡り、渡辺源次は板戸を開いた。着いて入れば、押し込んだような平屋が三つ突き合う。

 右と左は入口の引戸がきちっと閉ざされるが、正面は外縁から開け放たれた広間がすっかり見通せた。


「主のところへ行ってくる。お前達はそこの部屋で待っていろ」


 言って渡辺源次は、返事も待たずに歩み去った。

 ほかにどうすることもできず、松尾は正面の外縁に上がった。人ひとりを横たわらせたような、大きな自然石で藁草履を脱いで。


 外縁は、板の長さも幅も美しく揃っていた。おまけに裸足でさえ、つるつると滑らかだ。金太郎が上がっても、軋みの一つもない。柿渋色に塗られた柱の多くは、丸く削られたもの。


 広間に立ち入れば、やはり揃いの板敷き。奥には畳が一枚、建物の中へ続く引戸は格子に紙を貼った明障子あかりしょうじ。どうにも、松尾が住処としてきた場所とは空気が違った。

 すぐに十五、六の若者が、外縁から湯を運んでくれる。金太郎など若者が立つ前に飲み干し、お代わりを要求した。


「本物の茶だ。この屋敷、みすぼらしく見せて中身は銭を使ってるな」


 ちびちびと最初のふた口を飲んだ松尾に、金太郎は鼻息混じりで言った。


「本物って?」

「その辺の葉っぱを毟って沸かすのと違う。湯を飲むための葉ってのがあるんだよ。貴族でも偉い奴しか飲めないって聞いたが」


 松尾も以前に飲んだことがある、と金太郎は付け加えた。すると出所は聞くまでもない。


「そういえば思い出した。随分と濃くて苦くて、あまり得意でなかったな」


 何年も前だ。おばちゃんの出したものを残すのも嫌で、鼻を摘んで飲んだ気がした。今はそれなり、こういう物もあっていいと感じる。


「でも不思議と、もうひと口が飲みたくなる」


 口の中から苦みが失せると、手が自然に湯呑みを持ち上げた。


「だな。おらの茶はまだ来ないけど」


 茶が冷めきるまで時間をかけ、松尾はじっくり味わった。途中、寄越せと金太郎が言うのは聞こえぬふりで。

 結局のところ、新しい茶は来なかった。その代わり、松尾が飲み干すのを見計らったように明障子が開く。


「待たせた」


 見慣れた自然体から床を磨くかの摺り足で、渡辺源次が部屋に入る。入口からすぐ、畳の脇へあぐらに座った。

 直ちに両の拳を床へ突き、こうべも垂れる。ちらと向いた視線が、真似ろと告げていた。


「楽にせよ」


 金太郎共々どうにか倣ったところで、誰かが部屋へ入った。もの静かな声に従い、顔を上げる。

 狩衣の若い男が、ざっと風を巻いて腰を下ろすところだった。松尾をひと回り小さくしたような、中肉中背。口と顎に細い髭を整えた卵型の顔。

 どこにでもあるような、どこかで見たような、不可思議な印象を松尾は抱えた。


「源頼光公であらせられる」


 渡辺源次の平坦な声は主の前でも変わらない。対してその主は、途端に「ふははっ」と笑った。


「これ源次、新参の二人が固くなるだろう。もそっと笑え、愛想がなければ好かれぬぞ」

「それがし、生来よりこの性分にて」

「つまらん奴よ。すまぬな、堪えてやってくれ」


 あぐらのまま、畳の前端ににじり寄る。にかっと歯を見せて笑うさまは、どこか松尾にお頭を思い出させた。


「はあ……」

「そういう儂も、世間体というものはある。堅苦しかろうが、備前守と呼んでくれ」


 腕組みで、困った風に唇を結んで見せる。頼光の顔は忙しく色を変えた。


「怪訝な顔で、どうした。ああ、儂がここへおるのはおかしい、そう言うのか」

「いえ、おかしくは」

「それはな、お前達の顔を早く見たかったのだ。百里の先で賊が尻込みするとか、千匹の鬼を屠ったとか、源次が期待を持たすのでな」


 そんな馬鹿なという話ではある。だが頼光は厭味なく笑い、およそ押しつける感がない。新参を緊張させぬためと言うなら、ありがたい心遣いと松尾は思う。


「いえ、さすがにそれは──」

「公は一年の半分を京屋敷で過ごされる。お前達のためと言っては過分な世辞と言わざるを得ん」


 松尾の苦笑へ、渡辺源次が割り込んだ。たちまち頼光も「源次!」と、おどけた声で叱った。


「いや世辞ではない。たしかにあれこれと用事に追い回される身ではあるが、そろそろと当たりをつけて前倒しで来ていたのは本当だ」

「それはそれは」


 続くはずの感謝の言葉を、松尾の喉は押し潰した。頼光個人に恨みがあるわけでなく、仕えると決まったことに逆らうつもりもない。

 それでも、だ。


 誰の手とも知れぬ沈黙が落ちる。数拍、そもそも不機嫌を隠さぬ金太郎はさておき、松尾も拾い方が分からない。


「秋風と言えど、閉じ籠もるほどは冷えぬな」


 唐突に、頼光はなにを言い出したか。窺って見れば、意外に切れ長の眼が松尾の後ろへ向けられていた。

 振り返る。と、入ってきた板戸の辺りに旋風つむじが巻いた。枯れた葉と青い葉が入り交じる。


「さて、名もなき草のままでは恰好がつかぬ。二人とも、元服の儀も済ませておらんのだろう。いみなは儂がくれようぞ」


 諱とは。すっきりと笑む頼光に、松尾は問い返す機会を見失った。


「いや、要らん」


 さしおいて、憤然と金太郎。頼光は面食らった様子もなく、「ほう?」と目を細めた。


坂田公時さかたのきんとき。おらの名は、母ちゃん以外に付けて要らん」

「なるほど良い名だ。山を下り、公に生きる時と。覚悟が知れる」


 頼光は「のう、源次」と同意を求めた。応じて渡辺源次のこうべが、再び垂れる。

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