第35話:源頼光(二)
「我が主は
話すことが、壁のどこかへ書いてあるのだろうか。そう疑って見回してしまうくらい、渡辺源次は感情も抑揚もなく話す。
武士と言えば、髭を整えて気取るのが流行りらしい。対して目の前の男はもじゃもじゃと伸ばし放題で、どうにも人となりが読めなかった。
「知らん。お前、母ちゃんになにしやがった。答えによっちゃあ、痛い目じゃすまねえぞ」
唾棄するように吐き、金太郎は目を剥く。猪革を巻いた鉞の柄が、窒息しそうな悲鳴を上げた。
「金太郎」
だが、すぐさま返答したのは渡辺源次でない。眉を寄せたおばちゃんが、小さく首を横に振った。
「お前の気に染まないことを、どうしてもやれとは言わない。だけどこのお方はね、父ちゃんとお前を見込んで来てくださったの。人の話を聞くくらい、できるはずだよ」
金太郎は答えなかった。少しの間、刹那で鎮火した眼を母に向け、やがて鉞を壁に立てかけた。
それでも腰を下ろすまではせず、一歩で掴みかかれる距離にずんと立つ。腕組みで、灰の中の火種ほどは眼を燃やして。
「
「父ちゃんはどうでもいい。母ちゃんは都に居られないで、おらと今ここに居るのが全部だ。用ってのを早く言え」
金太郎の父は既に死んでいる。と松尾は知っていたが、名を聞いたのも初めてだ。なぜ死んだのか、言われもしないものを問うこともなかった。
「見込んでと良く言ってもらったものだが、そこはあまり関係がない。この辺りで長らく、賊やら鬼を退治する者があると。調べてみれば、蔵人殿の忘れ形見らしいと噂も聞いた」
松尾は自身の父と変わらぬ丈夫に育った。金太郎はその松尾を二人並べたほどの巨体となった。
そんな大男から見下されても、渡辺源次に感情が見えない。視線の向きさえ最初から変わらず、おばちゃんとだけ話しているように。
「へえ、それで。おらになにをさせようってんだ」
「斧に薪割りはさせても、仏を彫れとは言わぬ」
あっ、と松尾の声がこぼれる。堪忍袋が切れるのを、これほど如実に感じたことはなかった。
「よし分かった、鬼退治をしろってんだな。やってやってもいいけど、お前みたいな弱虫の言うことを聞くのが嫌だ」
「ほう。それがしが上回れば、言いなりということだな?」
頬をひくつかせた金太郎に、よく堪えていると褒めてやりたい。いかにも値踏みして上下する、渡辺源次の眼を無視したことも。
着いてこいとも言わず、手放したばかりの鉞を握り、金太郎は小屋を出た。応じて渡辺源次も、おばちゃんに一つ頭を下げて続く。
十歩を離れ、金太郎が振り返る。
見たような光景だ。刀を佩きはしたものの、抜かぬままの渡辺源次を含めて。
松尾は息を呑む。おかげで遅れて出てきたおばちゃんに、手を貸すのも忘れていた。
「刀ぁ抜かなくていいんだな? 油断してたなんて言いわけ、聞かないからな」
「そちらこそいいのか。二人がかりで構わんぞ」
言いつつ、渡辺源次も十歩ほど行く。既に鉞を振り上げた金太郎に背を見せ、およそ五歩の距離をとって。
「どっっせい!」
金太郎が跳んだ。直立から、直に渡辺源次へ刃を振り下ろすところへ。
地響きを立て、鉞が沈む。渡辺源次の半歩左に。
いたずらした子を叱るかに、脳天へ拳が落とされた。力など篭もっていない、戯れ程度の。
「お、お、お前!」
「言いわけは聞かぬぞ」
さあもう一度、とでも言うごとく。渡辺源次は先ほど金太郎の居た位置へ動いた。金太郎は向かう相手と自分の得物とを、見開いた眼で見比べる。
「服ろわぬ者」
脈絡のない言葉。松尾は悪寒を得て、全身を強張らせた。
そんなことまで、おばちゃんは話したのか。疑いたくはないが、そうとしか思えない。
「気づいていようが、年ごとに鬼が増え続けている。それを退治てくれるのは、助かると言って差し支えない。だが鬼にしろ賊にしろ、
盃浦の話ではないらしい。問題があると言われても、松尾は胸を撫で下ろす。
「ぐちゃぐちゃと、うるせえ!」
鉞を埋めたまま、金太郎が土を蹴る。おかげで捲れた地面に、すっぽり子供が入れるほどの穴が空いた。
低く、雨の日の燕のように、鉞が横へ薙ぐ。しかし渡辺源次の足に、拳一つ届かない。
七年前。松尾に刃が届かなかったのは、金太郎の加減だ。けれども今は違う。渡辺源次がいつ動いたか、見逃すほど僅かな動作で避けられている。
「服ろわぬ者の懐へ入った物は、例外なくお上の物と決まっている。つまりはお前達も服ろわぬ者よ」
ひと言の間に、鉞が二度は振られた。そのどれも、渡辺源次は最低限の体捌きで躱す。
「このまま続けるなら、今ここで首を刎ねる手もある。が、それは避けたいであろう?」
最後の問いが、明らかに松尾へ向いた。嫌なら二人がかりで来いというらしい。
「うん。それがしが負ければ、この地には誰も居なかったと。そう報告するとしよう」
空振りばかりの金太郎が、息を乱し始めた。渡辺源次はもごもごと髭が動くばかりで、口が開いているかも怪しい。
選択肢はないようだ。仕方なく、松尾も太刀を抜き放つ。
「鬼が増えたと言ったが、都にもだ。検非違使だけで足りぬようになって、幾ばくかが経つ。ゆえに主は、都に専門の見廻仕を置く」
どうやらそれが、松尾と金太郎への用件だ。武士になれと、よりによって見廻仕に。
「行きます」
構えた太刀に、気合いの息を吹きかける。それは金太郎との稽古に一度もない、強いものとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます