第34話:源頼光(一)

 足柄山に、七度の季節が巡った。


「松尾丸!」


 目を瞑った松尾の耳に鋭い声が届く。月のない夜、灯りもなしで、昼と変わらず跳ね回る金太郎の。

 松尾は膝を折り、姿勢を低くした。痛みに腹を抱えたかの恰好で。


 落ち葉の季節。積もった地面を深く踏む音が、どすどすと重い。呼びかけの意味するとおり、こちらへ近づきつつある。

 千年も動かぬ岩のごとく、松尾は静かに待った。


 来る。金太郎に追われ、松尾の存在には気づかぬまま。森の只中に唯一、星光ほしかげの落ちる開けた場所へ。

 足音がいよいよ近づき、松尾はそっと眼を開く。


 すると五間の先に見えた。

 喩えるなら紫陽花の青──いや死斑の肌色をした、頭頂に角を持つ大男が。

 ぼんやりと妖しく、朱に光る眼。松尾は己の眼光を正面からぶつけ、なおも待つ。


 一拍足らずの間を空け、鬼は猛る声を上げた。金太郎という鬼の膂力にも勝る怪物から逃げ、正面に現れた松尾をなんと見たのか。


「行きがけの駄賃か?」


 至極小さな呟きを聞き取ったでもあるまいが、鬼は牙を剥いた。足を早め、振り上げた両腕を松尾に叩きつけんと風を裂く。

 もはや耳もとで聞こえるように唸る、丸太と見紛う腕が二本、松尾の脳天に振り下ろされた。


 と、常人には見えたはずだ。しかし松尾は、既に一歩を踏み込んでいた。

 抜いていた太刀を斬り上げ、ひと呼吸の間を置いて立つ。振り返れば、過ぎ去った鬼も足を止めようと踏ん張るところ。


 だが、止まらない。襲いかかった勢いまま、牙を剥いたまま、鬼は前へ転げる。きっと、その場へ残った自身の胸から下を眺め、意味も理解できぬで。


「ふう」


 我がことながら、危なげなかったと思う。しかし松尾はそんな自分に、よくやったとは言えない。

 斬らねばどうもならぬと言え、やはり斬りたくはなかった。


「やれやれ、よく逃げる奴だったな」


 金太郎が星明かりの下へやってくる。担いだ鉞は畑の土でも塗ったように、どす黒く汚れた。

 それは松尾の太刀も同じ。辺りに散らばる鬼五人分の躯のうち、二人分だ。


「遅くなった。帰ろう、小母上おばうえが心配する」


 刃をよく拭い、鞘に納める。金太郎は気にせず、そのまま帰るほうへ足を向けた。


「その鉞は、本当に金太郎に合っているな」

「だなあ。ご先祖は、おらのことよく分かってんだ」


 戻る前には山水で濯ぐのだから良いのだろうが、松尾は奪ってでもすぐに手入れをしたいと思う。実際に言ったこともあり、その時に「おらの鉞だ」と手放さなかったので二度は言っていない。


「金太郎、ちょっと待て」


 なるべく汚れを見ぬよう、道々の草木を眺めながら歩く。途中、松尾は気づいた。見逃してはならぬ事態に。


「なんだ? また鬼でも見つけたか」


 呑気げに問いつつも、金太郎は声を小さくしていった。松尾がぴたりと足を止め、油断なく姿勢を低くしたからに相違ない。


「どこだ」

「そこ。藪のところ」

「どこだ、気配がないぞ」

「見えないのか。ほら、真っ赤のが数えきれない」


 腰ほどもない茨の藪に、艶めいた赤い実が鈴生りだった。小豆よりも小さな実を一つたりと失くさぬよう、慎重に採る。


「おい、そんなのに身構えさせるな」

「なんのことだ? 小母上の好物だ、今年はもうできているとは気づかなかった」


 文句を垂れながら、金太郎も実を採り始める。大きな図体をして、母を持ち出せば断ることはない。




 持っていた小袋をいっぱいにし、二人は我が家の前へ帰り着いた。炭焼きが倒した木を放置したかのように、丸太を重ねた小屋。

 この頃は落ち葉が積もり、なおさら周囲との見分けが難しくなる。


 付近の山賊、熊、狼。危険なものを駆逐していても、小細工もなしでは金太郎の母を一人で置いておけない。

 松尾にとっても、ここまで育ててくれた大切なおばちゃんなのだから。


「母ちゃん、帰ったよ」


 いつものように筵を捲り、いつものように金太郎は小屋へ入った。

 けれども松尾は、いつものように金太郎の後へ続くことができない。大きな背中が、入口を一歩のところで止まったために。


「お前、誰だ」


 低く、険にまみれた金太郎の声。意味するところを察し、松尾は背中を押し込む。

 おばちゃんは、いつもの火の傍へ無事に座っていた。いつもと違うのは、対面に狩衣姿の男があること。


渡辺綱わたなべのつな。世間には源次げんじと呼んでいただいておる」


 外した大小の刀が、右手の側に置かれていた。金太郎がゆっくりと、鉞を肩から下ろしても触れようとしない。


「急いて得はなかろう。それがし、用があるのは、お前たち二人によ」


 歳の頃は二十歳過ぎ。汚れ一つもない狩衣を揺らし、渡辺源次は髭に覆われた口へ悠々と湯を流し込んだ。

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