第31話:金太郎(三)
「隠れ村?」
耳馴染まぬ言葉を、おばちゃんは口にした。そのままを真似れば、頷きもする。
「ってのは、ここで勝手に呼んでるだけなんだけどさ。実際そういう場所はあるんだよ、おばちゃんが知ってるだけでいくつもね」
日々に擦り切れた指が、てんでばらばらに三、四箇所ほどへ向けられた。
「村にない物を換えに、大勢で町へ行ってたんだろ。なら、同じようにして年貢も納めに行くはずさ」
「年貢って──」
「村の物だよ。米や魚、布とかね。荷車で何台も」
そんな光景を見たことがない。松尾はぶるぶるっと
湯を飲む椀が、手からこぼれ落ちる。無意識に篭めすぎた力で腕が震えた。
「この一、二年かね。見廻仕って武士の集団が、あっちこっちを練り歩いてる。最初は鬼とか野盗を潰してたんだけど、今年は旱が酷かったから。隠れ村の米やらなんやら、根こそぎ持っていってるって聞いた」
減った年貢の足しにするのだろう。と、おばちゃんの言う理屈は分かる。本来は誰もが出すものとも理解できた。
「だからって、なんで。今までなにもなかったのに」
分かっている、旱があったからだ。盃浦も作物が枯れ、無事に済んだのは海賊たちのおかげにすぎない。
それをずるいと言われれば、そうだろう。決まりを守らすのが武士の役目と言うなら、米もどぶろくも奪われるのは仕方がないのかもしれない。
「ねえ、なんで? 分かるけど。なんで?」
理解したつもりでも、問わずにはいられなかった。
「──さてね。夏に街道を越えて沼へ往復してたってことだから、誰かに見られたか、たくさんで通った痕が残ってたか」
汚れた椀を、おばちゃんは念入りに拭う。なんの悪事を働いたでもないのに、潰れそうな泣き顔で。
「ごめん」
責めたつもりはないのだ。この上ない大悪党と自分を感じ、松尾は歯を食いしばる。ここで泣くのは違う、と必死で。
「謝るのはこっちだよ。大人がこんな顔してちゃ、松尾丸が困るよね」
椀に使った布で、おばちゃんは顔を拭う。力任せで赤ら顔めいて笑い、あらためて湯を注いだ椀を松尾に手渡した。
「これから、どうするんだい? むごいことを言うけど、逃げたのを知られてるなら村にも近づけないよ」
父はどうなったか。生きてはいまい、と浮かびかけた推測を湯で押し流す。
「盃浦に──」
戻るという発想はなかった。未来永劫、文殊丸が待ち受けているような気がして。
けれども言われてみれば、いつまでも居座る意味がない。松尾の存在をどう考えるかだけだ。
「どれくらい経ったら帰れるかな」
「そうだねえ。どうしても捕まえる気があるなら、見張りを用意するだろうし。あんたが大きくなって、そもそも人相が変わりでもすればいいけど」
「何年もかかるね」
その長い時間を、どう過ごせばいいか。田んぼどころか魚獲りの網も、鉈の一つさえない身一つでなにができるか。
この小屋を出た後のことが、僅かも想像できなかった。それでも考え続けた。懸命に頭を捻り、しばらく黙りこくって。
「もし、さ」
ふと。また喉の渇きに気づき、椀を傾ける。するとおばちゃんは、ぼそっと呟いた。
「もし、当てがないんなら。ここに居るかい?」
「えっ?」
おばちゃんの提案は予想になさすぎた。ここに居るって、ここに居るってことだよね、と。わけの分からぬ反芻を必要とするくらい。
「それは。いや、僕が居たら危ないんでしょ」
「平気だよ、ここも隠れ村だからね。村ったって、この子と二人きりだけど」
いまだ骨をしゃぶった金太郎を指し、笑うおばちゃんの眉間に皺が深かった。松尾の怪我に気づいてからずっと、その皺は戻らない。
「ここも?」
「隠れる理由は、みんな違うよ。お尋ね者が居れば、口減らしで故郷を追い出されたのも。今年はまた増えただろうね」
瞬間、おばちゃんの眼が天を仰いだ。問うてはならないのだと、なにをか言いかけた口を松尾は噤む。
「だからさ、嫌でなけりゃ居な? 金太郎の食うのに比べたら、あんたの分なんてあるもないも同じだよ」
食う物、眠る屋根。それだけあれば、生きるに困らない。
「いいのかな……」
「いいんだよ、遠慮することないから」
即座に重ねられる、おばちゃんの声。
でも違う、そういう意味じゃない。と胸の内で否定する自分が、また松尾には腹立たしい。
「待ちなよ母ちゃん」
次に声を発したのは、金太郎だった。けれども、先に座した火の傍とは方向が違う。
視線で探せば、立って小屋の隅から戻る途中。なぜか手に、鉞を握って。
「母ちゃんの言うとおりだからよ。おら、武士だのに見つかるのは困るんだ。お前が自分の村を潰したみたいに、下手ぁ打たれると、母ちゃんが危ない」
松尾の頭より大きい、松尾の頭より何倍も重そうな鉄塊が突きつけられる。
よく切れそうな刃を、恐ろしいとも感じなかった。金太郎の言うとおりだと、既に首を落とされた心持ちがして。
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