第30話:金太郎(二)

 金太郎は風のごとく走った。ひょいひょいと軽い足取りに関わらず、木立が飛ぶように過ぎ去る。

 それでいて、足が止まるにはしばらくかかった。おそらく尾根を一つ越えて。


 どちらを向いても、人の痕跡など欠片もない森の中。ぽつんと一つ、小屋があった。「あそこだ」と言われても、初めは松尾の目に小屋とも分からなかった。

 手のひらほどの太さを持つ丸太が、堆く積まれただけに思えた。


「母ちゃん、帰ったよ」


 松尾を担いだまま、金太郎は入口の筵を捲る。

 掘り下げた小屋の中は、思ったよりも広々していた。火を焚けるように地面が剥き出しになったほかは、板作りの床まで施された。

 大の男が十人でも車座になれよう。中心となる火の傍に、今は女が一人あるだけだ。


「あらあら。どうしたんだい、その子」

「拾った。なんだか泣いてるからよ、飯でもやってくれよ」


 長い後ろ髪を一本に纏めた女は、「まあまあ」と泣きそうな顔でやってくる。


「あちこち傷だらけじゃないかい。とりあえず、そっちを見ないとね」


 女が言うと、松尾は褐色の敷物の上に放り出された。着物を腹に抱えたまま、なにもかも丸だしで。


「よくここまで来たね。おばちゃんが拭いてやるから、火の傍へおいで」


 手を差し伸べられ、松尾は両手で縋った。「こっちこっち」と誘われるのは赤子の気分だったが、柔らかい女の笑みを前に、どうでも良かった。




「大江山だって?」


 金太郎の母。おばちゃんは、わざわざ湯を沸かして身体を拭いてくれた。

 さして松尾と変わらぬ体躯で、傷の一つずつをゆっくりと。足の大きな裂き傷も、練ったよもぎと麻布を。


「盃浦から、ずっと見えてた」

「盃浦ってのは聞いたこともないけど。大江山と言やあ、慣れた男の足で七、八日はかかるよ」

「そんなに」


 どこをどう進んできたか、いくら考えても思い出せない。逆にそうでなければ、履いていたはずの藁草履も失い、まだなおどくどくと流血する傷を押して進めなかっただろうが。


「なにか酷い有り様にでも遭ったのかい?」


 おばちゃんは新しく粥を拵えてくれようという。黄色い稗のひと粒ずつを潰すように、丹念にかき混ぜる。


「文殊丸が──」


 松尾の目に映ったことを、残らず話した。文殊丸と町で出会ったのも。どれだけ堪えようとしても喉がひくつき、話す順序もでたらめになった。

 おばちゃんは己がことのように時に顔を顰め、目を瞑り、またすぐ笑みを作る。「うん、うん」としつこいくらいに頷いてくれなければ、松尾はまた泣き崩れたに違いない。


「そりゃあ……」


 およそ話し終わると、おばちゃんはなにか言いかけて口を噤んだ。そのままじっと松尾を見るのは、憐れむようにも難しいなにかを考え込むようにも見えた。


 対して金太郎は、話す間もずっとなにかしらを食い続けた。今も手に、太い骨付きの肉をしゃぶる。

 松尾は肉を食ったことがない。盃浦の大人の中に、猪や鹿を食う者も居るには居たが。

 おばちゃんが黙ってしまい、金太郎を眺めたのはその珍しさもあった。同時に、松尾の倍はありそうな、父やお頭よりも大きな身体も。


「ん、松尾丸も食うか?」

「あ、いや、うん」


 言うより早く、別に炙っていた木串が突き出される。要らないとも言えず、仕方なく受け取った。

 食欲など、あるはずがない。あらかたを話し終え、おばちゃんの粥さえどうやって断るかに意識が向く。


 また別に、肉の正体が気になる。それは金太郎の肩にある掛けものに関わるのではと。下が赤い腹掛け一つでも暖かそうな、足長の毛が生えたなにか。


「あの。この肉って」

ひぐまだ」

「ああ、うん」


 予想に違わなかった。

 小屋の中へ弓の姿はない。得物になりそうな物と言えば、おばちゃんの脇の鉈と、隅に立てかけたまさかりが一丁。

 松尾の背丈にも匹敵する大きな物だが、まさかこれ一本で熊と対峙するとは考えにくい。


 周りに力を貸し合う誰かの気配もないし、と。村長や兄ちゃんたちの姿が浮かぶ。

 また、涙や鼻水の栓が緩む。自分の気持ちをごまかすために、松尾は熊肉に喰らいついた。


 脂くさい。日を置いた黒鯛にも似た、しつこい風味。父は苦手と言ったが、村長が獲ったのだからと平らげた。

 くさいなあ。でもせっかくくれたのを、食いもしないのは駄目だよね。


 目の端に涙の溜まるのは、父の記憶のせいか肉のくさみのせいか。嘔吐えずきながらも飲み込むと、蛙の合唱のごとくに腹が唸る。

 胃の中が空っぽだった。飲み込むごとに、どこへ肉が落ちたか分かるような感覚がした。


 串が裸になると、おばちゃんが椀を差し出す。粒の見えないとろとろの粥を一気に掻きこんだ。

 一杯で足りず、二杯、三杯。五杯でようやく、椀を手放した。


「ごめん、こんなに食って」

「なにを謝ることがあるかね」

「ううん、ごめん……」


 松尾が謝るのを、おばちゃんは二度は止めなかった。代わりに「いいんだよ」と頷き、空の椀に湯を注ぐ。


「それで、松尾丸。盃浦ってとこなんだけどさ」

「うん」

「あんた、村長の隣へ住んでたんだろ。それなら何度か、お役人と会ったかい?」

「お役人?」


 意味が分からず、問い返す。それだけなのに、おばちゃんは「ああ」と分かった風の表情を浮かべた。


「お頭って人の言う、官のことさ。帝とか貴族の使いで来る人だよ」

「ううん。村の人以外は、あの武士たちが初めてだ」


 だろうねとでも言いたげに、おばちゃんは曖昧に首肯した。

 どうしたと言うのか。松尾が訊ねるより先に、思いがけないことをおばちゃんは口にした。


「違ったらごめんよ。もしかしてあんたの父ちゃんは、本当の父ちゃんでないんじゃ?」


 なぜそんなことを。

 驚きと憤りと寂しさを等分に抱え、松尾は唇を結んだ。そのまま静かにかぶりを振って、うらはらに答える。


「うん、どこかで拾ってきたって。でも父ちゃんは父ちゃんだよ」


 共に寝起きを重ねた父を、父と以外に呼びようがない。

 松尾も出産に立ち会った、盃浦で産まれた赤子がいつか自分の父を父と呼ぶ。それとなにも違わないのだ、と胸を張る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る