第28話:文殊丸(十四)
松林へ手が届くのと同じくして、燻る臭いが鼻腔を冒した。よく乾いた木と枯れた草の燃える、晩の飯時に親しんだ香り。
振り向かない。
今にも後ろから、首根っこを掴まれる気がしていた。言いつけくらい叶えないで、どうして父の下へ行けようか。
土と草を蹴る音も気にせず、見張り小屋の隣へ駆け込んだ。
「──!」
最初の一声は、音を成さなかった。溜めた息を吐き出すと、なおさら次が言えない。いまだ腹の底から衝き上げる感情が、激しく喉を痙攣させてもいた。
それは無視するとしても、想定外が起きた。外道丸とささ、兄妹の姿がない。
二人分の筵が、寝床を形作ってはいた。
どこへ行った。小屋にあるのは筵の他に、椀と皿のみ。どれだけ眼と首を動かそうと、事実が覆らない。
「松尾丸」
真後ろ。びくっと仰け反ったが、外道丸の声と理解もしていた。
よろめきつつ振り返り、間違えようもない金髪と白面を見る。途端、止まりかけていた涙が、滝のごとく流れ始めた。
「げっ、げどっ」
名を呼びたかった。それに、隣へ見えないささはどうしたと問いたかった。切れた息と、先走る嗚咽が繰り返しに邪魔をする。
すると外道丸は、さっと拳を持ち上げた。よく見ろとばかり示され、おろおろと目を向ける。
次の瞬間、木を叩き折るかの軽快な音がした。同時に松尾の視界が闇色に閉じる。
さらに次、炙るような熱さが頬を襲った。瞑った眼を開ければ、「落ち着いたか」と外道丸が睨む。
「う、うん」
「で、どうした?」
いつもどおり、機嫌の悪げな低めた声。
それが良かったのかもしれない。震えてはいても、松尾は言葉を発せた。
「ささは? か、隠れないと」
「そこに居る。なにがあった?」
指をさすほうに、外道丸自身の眼は向かなかった。なにがあるでない、落ち葉の積もる松林の只中。
ただ一箇所、少し盛り上がったところがある。そこに埋もれた、ささの顔が見えた。招く兄の手に従い、いそいそと立ち上がった。
「分からないけど……文殊丸が、武士が来て。みんな切られてる」
「武士か」
ぎりっ、と外道丸は奥歯を鳴らした。お頭とよく話しているから、武士がどんなものかは知っているはず。おそらく、かなりの悪人としてだろうが。
「お頭にも知らせなきゃ。船に乗せてもらったほうがいいかも」
話すごと、頭の中がすっきり片付けられていく感覚があった。どうせお頭が沖へ出るなら、隠れるよりも安全だ。
「そいつは難しいな」
「えっ、どうして」
ささへ向けられた指が、今度は海のほうへ。そのとおりに首を動かせば、朝日に煌めく海が見える。
砕ける白波は見慣れたもの。遠く水平線では、皮肉としか思えない美しい青が溶け合っていた。
難しいとはなにをか、視線を動かす。
すぐに見つけた。謎かけとしては、ひどく優しい。
「船が」
海に煙が立つ。浦の出口へ近いところへ二つ、少し手前にまた二つ。海賊たちの船が、轟々と炎を上げる。
なぜ。武士が松尾に先んじるなど、あり得ない。
この答えもまた、気づけば簡単だった。浜にほど近い浅瀬へ、見たことのない船がある。
大きい。海賊の船と比べて、幅も高さも二倍。船の上には、松尾の家と遜色ない広さを持つ板小屋まで。
「お頭っ!」
叫んだ時には、もう走っていた。後ろで聞こえた「おい!」が、どういう意味かも考えられなかった。
だがそれも階段を下りるまで。松尾の足は、ひとりでに止まった。
大きな船が正面に見えた。横腹へ突っ込んだ海賊の船に、動く姿はない。船縁へ、海賊の誰かが倒れている。干した手拭いのごとく、波のまま揺れるだけ。
同様に、浜には多くの人間が倒れた。褌姿の海賊と、狩衣姿の武士とが混ざり、このまま何人と数えるのは諦めざるを得ない有り様だった。
「おい松尾丸」
外道丸の声が追いついた。動けぬまま、二度と口きかぬ者どもを眺めたまま、「外道丸」とだけ答える。
「たしかに逃げ道は一つしかねえな」
「ええ?」
なんのことだか、すぐには察せなかった。だというのに、外道丸の手が松尾の肩を強く引く。
無理やりに向きを変えられ、なにかと思えばささの手を握らされた。まだ十に届かぬ少女は、真一文字に結んだ口で松尾を見上げる。
「ささを連れてってくれ。俺はこいつを持ってく」
最も近くに倒れた海賊から、外道丸は刀を取った。片手で一振りすれば、重く風を断つ音がした。
「いや、外道──」
「お頭はそこだ」
切っ先が、浜の右手を示す。どぶろく様の洞窟を前に、お頭と海賊が合わせて三人。囲みこもうとする狩衣姿が九人。
誰もが刀を重そうに持ち、無傷の者はないらしい。
「あっ、洞窟の道」
「そうだ。お前が教えてくれたのに、忘れてたのか?」
自ら奥歯を噛み砕かんばかり。噛み締めた顎が、不似合いに笑う。
「武士と戦おうって言うの」
「黙って通しちゃくれないだろ。何人か斬りつけるだけだ、そうすりゃお頭も助かる」
たしかに洞窟へ入るには、武士の近くを過ぎなければならなかった。さらに数で劣るお頭たちに、じりじりと囲みを縮めつつある。
「今なら、誰もこっちに気づいてない」
「ああ。分かったら行くぞ」
「いや、僕が。外道丸は、ささを抱えてあげて」
刀を寄越せと手を出した。ささが軽いと言えど、外道丸のほうが疾く動けるに決まっている。
「斬れるのか?」
できるのなら代わってやる。と、突き出された刀の柄が語っていた。刀身から伝った血で、どす黒く染まった柄が。
ささと繋いでいない手で、柄を握る。しかし、そのまま奪うだけの力を入れられない。苦しい息を三度もする間に、外道丸は元通りに刀を持ち直す。
「ささを任せたからな」
「うん」
もう、どんな言葉も重ねるまいと誓った。言いわけばかりの役立たずより、せめて任されたことを果たすほうがいい。
外道丸は合図もなく地面を蹴った。松尾も黙って、ささを抱えた。荷物のごとく、半ば肩へ担いで。
「松尾丸」
「うん」
小さく聞こえた少女の声が震えた。背に回した手を軽く叩き、松尾も小さく答えた。
「新手が!」
気づかれた。武士の一人が叫び、三人が向かってくる。その隙を突き、お頭が目の前の一人を斬り伏せた。
「来い!」
お頭が吼えた、と同時に足を踏み出す。残る仲間二人と見事に息を合わせ、武士の五人を後退りさせた。
「うおぉぉぉ!」
こちらへ走る三人が、揃って刀を振り上げる。外道丸は端の一人へ横薙ぎ、相手の刀を落とさせた。
「行け、松尾丸!」
海賊たちの背後、広げてもらった空間へ駆ける。耳に聞こえる「ドブロクサマ」に奮い立ち。
通り抜けざま、お頭を見た。たしかに笑って、行けと顎を動かした。
父の居ない洞窟に明かりはない。これではあの危険な道も真っ暗のままだ、と肝が冷えた。
「
突然の大声に、耳がきんと鳴った。足を緩め、突き当りに手探りでどぶろく様を見つけた時だ。
そのまま、ささは松尾の腕を押しのけ飛び出す。
「ささ!」
引き止めようとした手が宙を掴んだ。
外の光。白々しい明かりを背負い、逆光の誰かが倒れる。遅れて舞った髪は、透けて黄金に輝いた。
駆け寄る小柄な影が、金色の頭を持ち上げた。泣き叫ぶ声がなにを言っているやら、理解も追いつかない。
白く、細く、光の筋が奔る。銀の髪が松尾の目の高さまで浮き上がり、地面に落ちた。桶で撒くような水音と共に。
それはきっと、松尾の顔を覆った。心地のいい温もりが頬を滴る。
「服ろわぬ者どもが!」
ぷつり。
どこかで、細い糸の切れた気がした。
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