第26話:文殊丸(十二)
「鬼、なに?」
帰路。振り返り気味に、ささが問う。
沼を立つ時に何人かが「鬼に出くわしちゃ、ひとたまりもねえ」と洒落にもならぬことを言ったからだろう。
「そんなにしなくても聞いてるから。前、向いて」
熱心なのか一途というのか、松尾への問いかけを遠慮しなくなった。
松尾のほかは、まだまだ大人にも子供にも遠慮が見える。発する声が、あ、とか、ん、だけに戻ることも。
それだけ信頼してくれてるってことだよね。と喜ぶ一方で、早く村じゅうの誰にも馴染んでほしいとも考える。
こういうのを親心と言うのか。などとは父の背中を視界に入れ、恥ずかしさですぐさま打ち消した。
「たぶん
「え……」
先に外道丸が、振り返りもせず答えた。意味は分からなかったが、ささの曇った声に正解の臭いを嗅いだ。
「土の底、行く? 夜の国?」
兄妹の故郷では、そういう場所に
「あたし、食べられる?」
「食べられないよ」
鬼だ。確信を持ち、すぐさま答えた。強く。
「いつも父ちゃんと話してるんだ。なにかあったら、僕が子供たちみんなを守るって。鬼とけんかはできないけど、逃げ道や隠れ場所はいくらでも知ってる」
成敗してやるとでも言えれば良かった。けれども無理なものは無理だ、自分は文殊丸になれない。
そう、ふっと浮かんだ武士の子に嫉妬の気持ちさえ起きなかった。
「松尾丸だけじゃねえ、俺も勘定に入れろ」
お頭かぶれの外道丸が、今度は振り向いて言う。ささはくすっと笑うものの、ああそうかと松尾は思う。
歳上で身体も大きい。子供の居る他のどの家より近い。父と村長のようになってもいい。なってほしい、と胸が熱くなる。
「入ってるし、入ってほしいよ」
だから素直に頼んだというのに、外道丸は驚いた顔をするだけで答えなかった。元通りに歩くほうを向き、しばしの間を置くまで。
「お、俺は強くなって、鬼も負かすようになるけどな」
「凄いね。さっきお頭の言ってた見廻仕っていう武士に、外道丸と同い年が居るよ」
それなら自分もとは、やはり言えなかった。臆病者と言われても否定しない。もし理由を訊ねられたとて、松尾にも答えられなかった。
襲い来る鬼を返り討ちにした文殊丸を、凄いと思う。が、唯一無二の解決方法ではない気がして。
「俺はそいつより強くなる」
「うん、なれるよ外道丸なら」
どんな備え方を選ぶも人それぞれ。父の言葉に従うだけでなく心底信じて、笑って頷いた。
* * *
村を流れる小さなせせらぎが回復するには、ふた月以上がかかった。ちょうど稲刈りの時期で、今から育てられる作物はない。
それでも、水汲みにはもう行かなくていいと村長が宣言した日。毎日の晩の飯の輪が、宴の空気に変わった。
物珍しさなど最初の数回だけで、
「しかしお頭が居てくれて良かった。年じゅうで何も採れないなんて初めてだ」
「へっへっ。そん時は、どぶろくが作れなかっただけだろ? 手の届かねえどぶろくまで、面倒見きれねえや」
しみじみ言った村長を、お頭は笑い飛ばす。
「いや、それでも足らなかった。よその土地がどうだったか想像するのも怖いくらいだ」
「うん。盃浦が誰も死なずにすんだのは、お頭のおかげで間違いねえ」
村長と父とが、真面目くさって頭を下げる。するとさすがのお頭も「勘弁しろよ」と音を上げた。
「そんなことより。今日、誰か丘の上へ登ったかい?」
あからさまに話を逸らし、お頭は夜の森の一方へ指を向けた。
苦笑しつつ村長も「誰か覚えが?」と問う。けれども、いや当然と言うべきか、自分がと答える者はない。
「もう沼に用はねえ。町へ行くでもねえ。上がる理由がないぜ」
そのはずだと皆が考えるだろうことを、兄ちゃんが叫ぶ。今日はどれだけ飲んだかという、はしゃぎぶりで。
「そろそろ冬支度だ。鹿か猪とでも見間違えたんだろうさ」
「──かもしれねえが」
村長の推測に、お頭も一応という風で頷く。だがそれを、「いや」と止めたのは父だった。
「お頭。明日の朝、一番で付き添っちゃもらえねえか。鹿でも猪でもいいが、念のためにな」
「もちろんだ。うちの奴らも連れていこう」
なにが念のためか、松尾には分からなかった。それよりも父に「明日の朝の仕事は頼む」と任されたほうが重要だった。
──明けて、朝。
松尾を目覚めさせたのは朝日でも父でもない。
「誰ぞ! この集落の纏め役を出せ!」
どこか、さほど遠くない距離から。眠りの底の松尾を跳ね起きさせる大音声が響いた。
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