第25話:文殊丸(十一)
暑さも盛り。ただ日なたへ立っているだけで、汗が噴き出る。陰へ隠れたとて、吹く風が熱い。
そんな中、山を歩かねばならなくなった。村の人数を半分に分け、水を汲みに。海賊も子供も例外なく。松尾の前に、ささ。その前に外道丸も。
「一日置きに歩くくらいなら、沼の傍へ住むほうが楽じゃねえかな。暑い間だけでも」
誰にともなく、先頭を行く兄ちゃんがぼやいた。
村を見下ろす頂上を過ぎ、せっかく登ったものを下り、街道を横切って隣の山へ入る。
さらに沼は獣道を分け入った奥という短くない道のりを、「黙ってたんじゃ、気が滅入ってしょうがねえ」とも。
松尾など、共感はしても喋る力さえ惜しみたかった。だのに律儀に「まあな」と、父は応じる。
「みんながそうしようって言うなら、ない話じゃないが」
「言うに決まってるぜ。なあ?」
また誰にとなく、兄ちゃんは同意を求めた。
答えがない。どこかから小さく「いやまあ」などと曖昧な声は漏れ聞こえるものの。
「どうしたよ、みんな。朝飯食ってねえのか?」
不満より、不思議そうに兄ちゃんは問う。それでやっと、答えがあった。
「みんな腹は膨れても、喉がからからなんだ。沼に着いたらいくらでも聞いてやるから、与太話はちょっと待ってろ」
お頭が「へっ」と鼻で笑う。
「なんだお頭、つれねえこと言うな」
「つれねえのはお前だよ。在り処を知ってるだけで、ほとんど使ったこともない沼なんだろ? 近くに獣の巣があるかもしれねえ。食い物を置いとく屋根もねえ。そんなとこに、いきなり住めるもんか」
水を汲むだけと、寝起きするのは違う。兄ちゃんには悪いが、先ほど同意の声を上げなくて良かった。ふうっと吐いた安堵と疲労の息を、続くお頭の低い声が掻き消す。
「どうも鬼も多く出てるようだしな」
ざあっと熱風が抜ける。一行の一人残らず、ぴたり足を止めた。
葉鳴りがやむと、森は静まり返る。松尾の耳に、今にもあの山伏の叫びが聞こえる気がした。深い茂みの向こう、太い木々の目隠しをした先。数えきれぬほどの暗がりへ、いちいち巨体の影が見えたかと唾を飲む。
おそらく大人たちも、似た幻を見ているに違いない。証拠に兄ちゃんの声は震えた。
「お、鬼が? なんでだよ、蚊じゃあるまいし」
「さあな。話を聞いた村じゃ、今年は人死にが多いからだって言ってた」
期せず、兄ちゃんとお頭は「へへっ」と同時に笑う。
「おいおい。それじゃ鬼ってのは、死んだ人間のなれの果てみたいじゃねえか」
「かもしれねえ。なにせそいつが見た鬼は、死んだ仲間と同じ着物だったそうだ」
多くの息を呑む気配。兄ちゃんはどうだったか、次の声が出るまでに、幾ばくかの沈黙があった。
「……俺の親父とお袋は、鬼になんかなっちゃいねえ」
「ああ、間違いなくとは言ってねえよ。鬼になるならないも、理由があるかもしれねえし」
こっくり頷いたお頭が、兄ちゃんの肩を叩いて歩き始める。二歩遅れて、兄ちゃんも。すると全員が桶や樽を抱え直す。
「安心しろよ。去年辺りから、見廻仕とかって武士の集団が増えてるんだと。あっちこっち、鬼を捜してるらしいや。鬼退治の専門家ってとこだな」
足を止める前より、列の速度が落ちた。松尾の勘違いかもしれないが、互いの距離も近くなった。
安心しろと言われても、すぐには元へ戻らない。少なくとも熱い風に吹かれながら、背中へ走る寒気が消えるまでは。
到着した沼は、松尾の家が四つ五つほども入る広さがあった。流れ込む川はなく、縁に水の引いた跡が残る。
どこからともなく生まれた波紋の途切れることがない。対岸まで見えないところのない澄んだ水に足を浸けると、冷たさが脳天に響いた。
「冷たい」
「本当にここに住むのもいいかもしれないね」
ぶるっと、ささが震えた。外道丸も、父もお頭も、誰もがまずは身体を冷ます。
「ささ、髪と身体を洗っておけよ」
「洗う」
抑揚をさておけば、外道丸の言葉はかなり自在になった。その兄妹と三人して前へ進み、膝の辺りまでを沈める。
手拭いを濡らし、首すじを拭いた日にはこの上ない快感だった。
大人の女の中に、長い髪を解く者もある。ささも倣って袖を捲り、腋下くらいの銀髪を水面へ浮かした。
「もう痛くない?」
剥き出しの白い肌に、鉤裂きの傷痕が走る。褐色の百足を張りつかせたように太くでこぼこと膨らみ、終いは三叉に分かれた。
ささのあどけなさに似つかわしくない。思わず、痕になったねと言いかけたのは避けたが、なにも言わぬ選択はできなかった。
「痛くない。松尾丸のおかげ」
水滴を落としながら、満面の笑みが振り向く。出会った最初より、女の子っぽくなったなと松尾も微笑んだ。
そもそも少女なのは間違いなく、どこがどうと表せる語彙を松尾は持ち合わせなかった。
強いて言葉にするなら、とても可愛らしい。怪我が治ったとは言えの細腕に、帰りの水を持たせるのは忍びない。どうにか肩代わりしてやる言いわけはあるだろうか、と松尾は思考を忙しくした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます