第24話:文殊丸(十)
* * *
「父ちゃん」
「ん、なんだ」
「……ううん。ハマセリ採ってくるよ」
ささが怪我をするまでのことを、何日が過ぎても問われなかった。父も村長も、他の誰からも。
おそらく外道丸とささが、家の前で待ち構えていたあの日に伝えたのだろう。でなければ、父の宣言した飯抜きがうやむやになるはずはない。
「マツオマル」
「ささ、今日も手伝ってくれるの?」
変わったことが、もう一つ。事あるごと、ささに声をかけられるようになった。海辺で野草を狩ってなどいると、すぐさま頭上の松林から顔を出す。
あれだけの深手が、そうそう癒えるはずもなく。ささは左手だけを使い、見様見真似で草を千切る。
茂る場所は、そちらにもあちらにも。関わらず、ささは肩の触れ合うところへしゃがみこんだ。
そも、いつも兄の陰で不安げにしていた。まして体調を悪くしては、人恋しいのも当然だろう。不意の痛みにしばしば顔を顰める少女を、健気と松尾は思う。
「ささが無事で、本当に良かった。あ、いや、怪我はかわいそうだけど。その、ね」
「ありがとう」
日ごと微笑む数の増える妹を、雑談には少し遠い距離で見つめる外道丸も憎からず。「そっちにもある?」と気を利かせ、兄妹を近づけてやれば拒まれることはない。
「あれ──もうハママメができてた? いつもは稲刈りの頃なんだけど」
「知らん」
外道丸の言葉は、段々とお頭に似ていった。
稲刈りの時期が訪れても、ささの腕はまだ麻布を巻いたままだった。ちょっと動かしたり触れる程度には問題ないが、物を持つのが痛いと。
「あたしも」
「片手でもできるけど、転んだ時に危ないよ」
父と松尾の育てた田んぼを前に、ささが地団駄を踏む。もっと年少の女の子が手伝いに入るのを、への字の口で見送った。
「ささ、松尾丸の言うこと聞け」
宥める松尾の援護に、外道丸の声が飛ぶ。いやその当人は真っ先に田んぼの中で、火に油だったかもしれない。
「来年。次は必ず一緒にやろうよ。というか、田植えからやる?」
「やる」
駄々をこねるというほどでない。頷きながらも松尾の裾を握り、田んぼへ入るのを僅か遅れさすだけだ。
「大丈夫。約束するから、今年はやり方を見てて」
外道丸を真似て、頭を撫でてみる。と、目を見張ったのは嫌がられたか。慌てて手を離せば、今度はへの字の口で頭を突き出す。
おそるおそる、この世にたった一つの銀色に触れる。「ふにゃあ」海鳥の啼く声に似た音が、どこからとなく聞こえた。
冬が来て、春を迎え、兄妹には二度目の梅雨。松尾にも初めてのできごとが盃浦を襲った。
「今年はどうした、雨が一つも降りやしねえ」
田植えの時期からこちら、父の言うとおりの空が晴れ渡る。村にも小さなせせらぎがあり、誰もその水で堪えた。
しかし雨がないでは梅雨とも呼ぶまいが、そのころにはせせらぎも干上がる。最も奥の兄ちゃんの畑を最初に、次々と田畑が渇れていった。
「なにが要る? 水か」
「飲み水くらいは山向こうの沼から運べる。足らねえのは米だが、それも蓄えを潰せばいい。さすがにどぶろくは作れねえが」
それは一大事と、お頭は米を都合に出た。
「絶対に持って帰るからよ、どぶろくだけは失くしてくれるなよ」
目を潤ませて訴えられては、父も頷かざるを得ない。海賊たちを信じ、蓄えの米を仕込みに回す。
その間にも雨が降れば、まだ生き残った作物はあった。けれどもおよそひと月後、お頭の帰るまでも天の恵みはない。
「今年はまずいな。行く先々、どこもからっからだ」
そう言いつつ、お頭はたくさんの米俵を持ち帰った。
誓って官の船しか襲っていない。これが証拠だと示された菊の紋がなにを意味するか、松尾には分からなかった。
当面の水や食料を譲ってもらうのに、行きずりの集落を見てきただけだ。という言い分のほうが、なるほどと思える。
「それでもお上は、年貢を出せってんだろうな」
「はっ、当たり前だ。そんな温情がありゃあ、俺が海賊になることもなかったぜ」
さすが大人は難しいことを言う。父とお頭の話すのは、さっぱり意味が見えない。
「年貢って?」
きっと重要なのはその言葉だ。
知らぬことを知らぬままにするのは、備えが足らない。父の常々の教えに従い、問うた。
「お上に。帝にだな、田んぼや畑で作った物を差し出すんだよ。お国に住まわせてもらって、ありがとうってことでな」
いかにも皮肉げに、お頭は鼻で笑う。官しか襲わない海賊が、官の親玉という帝を語ればそうなるのだろうが。
「へえ、そんなの出してたんだ」
どこかへ持っていくのか、誰かが取りに来るのか。いずれにせよ、松尾には見た覚えがない。
これも問うたつもりだったが、父の答えはなかった。米だけでなく芋や蕪なども船から降ろされるさなか、聞こえなかったなら仕方がない。
また聞けばいいと後回しにしたのを、それきり松尾は忘れ去った。
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