第23話:文殊丸(九)
──ふと気づいた松尾は筵に包まり、横たわっていた。
入り口に漏れる外の光は、どう考えても夜でない。目玉と首をやっと動かし、辺りを見回すが、父の姿もない。
「父ちゃん?」
さっと上体を起こす。と、視界がまるごと揺れた。それから頭の中で、誰か槌打つような音と痛み。
ああ、そうか。
お頭と外道丸、どぶろくが脳裏に蘇る。見張り小屋からどうやって戻ったかは、どうにも記憶になかったが。
座ったまま外を感じるに、朝の頃合いはとっくに過ぎていた。すぐにも父の手伝いに行かねばと思うものの、頭痛がそれを許さない。
ゆるゆると四つん這いになり、膝立ちになり、立ち上がってよろめく。随分と時間を使い、松尾は家の外に出た。
「あっ」
誰か、子供の声。真上から降る夏の日差しに、またよろめいた。自身の手で額へ庇を作り、声の主を探す。
「マツオマル?」
「あ、ささ」
茜色の筒袖に、右腕を包んだ麻の
十歩の後ろへ、外道丸の姿もある。目を合わせても、これと言葉がない。視線で妹を示し、無言のまま。
「立って歩いても大丈夫そうだね」
ささは一人で立ち、伏せ気味の顔をぎこちなく頷かせた。普段、兄を支えにしてやっとという印象からすれば、むしろ今のほうが強く感じる。
対して松尾は、身体の芯を失った心持ちだった。気持ち悪さはないものの、油断しては倒れそうに。
「あ……」
絞り出すかの細い声。左手が手拭いを離し、小さく前に動いた。
それで心づく。ささに名を呼ばれたのは初めてだ。あ、とか、ん、とか。これまで、そんな声をしか聞いたことがない。
「あり……」
手が、
けれど、ただ微笑むだけを返した。二日酔いの顔がうまく機能したか定かでないが。
ささの声を。村で最初に聞く声を、どうしても聞きたいと思った。
「あり、ありが──ありがとう」
言った。だから、ささは完全に俯くと思った。若しくは走って、兄の後ろへ逃げ込む。
しかし違った。
純白の、大輪が開く。陽光をいっぱいに受け、自らが輝くかに。
同時に出された手は、宙へ留まる。握る物もなく、ならば握れば良いのか。
松尾の手に、細い指先をそっと乗せる。そしてどうするか、考えてもう一つの手を上に重ねた。
「ありがとうなんて。でも、ささとこうして話せて良かった」
見ていたのに、嫌な予感がしたのに。怪我をさせてごめん、と謝ることはしない。
言えば、ささの笑みは消えてしまうと。
「ロ……
はにかんで、ささは耳慣れぬ音の並びを口にした。だが聞いた覚えはある。外道丸が、海へ没したささを呼んだ時に。
「ろぉざ? ささの、本当の名前?」
ささの真白い頬が紅く染まり、なお嬉しそうに頷く。
「じゃあ、これからそう呼ばないと」
ささ。なぜ、そう呼ぶことになったのだったか。松尾自身が聞いたと思ったが、記憶に薄い。
どうであれ本来の名があるなら、そちらで呼ぶが良いに決まっている。いともあっさり、松尾は答えた。
「
分からない言葉。首が静かに横へ振られたのを見れば、違うと言うのだろう。
「ん? ええと、ささって呼ぶほうがいいのかな」
「
今度は勢い良く、縦に振った。「あっ」と気遣ったのも遅く、ささは傷の位置を手で押さえる。
空っぽになった松尾の手は、ささの肩に触れた。気休めながら、撫でてやった。
「松尾丸」
いつの間にか、ささの真後ろへ外道丸が居た。妹の背中に触れ、座るよう促す。
「あはは。痛そうだけど、でも良かったよ」
その場へ座ったささを見下ろし、まず松尾は笑ってみた。
兄妹は礼に来たようだが、受け取れる立場でない。さらにゆうべ、途中からの記憶がすっぱりと切れている。
他になにを言ったものか、思いつかなかった。
「殴れ」
「え?」
またも知らぬ言葉に聞こえた。殴れ、とは外道丸の故郷でどういう意味だろう。
「松尾丸、困った。ローザ──ささ、危なかった」
ささと同じ白い頬を松尾に向ける。それでも「えっ、なに?」と要領を得ずにいれば、外道丸自身の拳が己の頬を打った。
「殴れ」
聞き違いや勘違いでないらしい。なぜ殴らねばならないのか。反射的に、わけが分からないと言いかけた。
開きかけた口を閉じ、考える。
どう考えても、こうとはっきりした答えは出なかった。
「自分で自分は殴れないから?」
もしかして、という仮定は立った。松尾が外道丸であっても、絶対にそこへは辿り着かないと思いつつ。
「
小さく、二度の首肯。
「本当に?」
「早く」
再び、外道丸は自身の頬を拳で打った。
「次に頼まれても、嫌だよ」
自分に外道丸を殴る資格はない。そう断れば、外道丸は納得できないに違いなかった。
加減をしても同じく、だ。「じゃあ」と前置き、足を開き、思いきり振り抜く。
幸いと言うべきか。二日酔いの拳は、外道丸の頬に痣の一つも拵えなかった。
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