第22話:文殊丸(八)

「そろそろ効いてきたか」


 耳の奥。お頭のからかう声が、ぐわんぐわんと鳴り響く。


「かなり」

「じゃあ、内緒話をしてもいいな」

「内緒?」


 松尾の目に映るお頭は、波間の海草のごとく揺れていた。それが立ち上がり、小屋の隅へ向かうのは危ない、と引き止める手は伸ばせなかった。


「潰した青豆と団子を混ぜたもんだ、甘くてうめえ。ガキのころ、なにより好物だったな」


 黒光りする美しい箱が、蓋を取って松尾の前に置かれた。言うとおり、中にとろけた塊が四つ。


「なんで内緒?」

「これしかねえからだ。他の小僧どもの分がねえ」

「──前の、饅頭もおいしかった」


 似たような箱を以前も見た。珍しい物が手に入ったと海賊たちが、子供の全員に甘い菓子を振る舞ってくれた。


「だから内緒話だ。松尾丸は夢ん中で、うまい物を食った。いいな?」

「う、うん」


 空腹のはずだが、食いたいと思わなかった。むしろ腹の中で煮えるどぶろくを吐き出したいと。

 父の作った物を、お頭が勧めた物を、汚物に変えるのが嫌で耐えていた。

 ゆえに、青豆の団子にも手を出す。ねっとり重い感触を運び、どぶろくにも似た甘さを口の中いっぱいにする。


「温かい」

「さっき、俺が拵えた」

「お頭が?」

「悪ぃのか」

「ううん、おいしい。でも」


 半分ほどを飲み込むと、気持ち悪さが少し治まって感じた。すると急に、内緒というのを後ろめたく思う。


「でも?」

「お頭も食べようよ」

「ああ? 俺は松尾丸に食わせてやろうと思って」

「一緒に食べようよ」


 団子の箱を睨みつけ、お頭は唸る。が、すぐに「まあいいか」と、団子を口に放り込んだ。丸ごとをひと息で。


「久しぶりに食っても、うめえもんだな」

「うん、おいしい」

「まあでも、小魚ざこを塩で焼いたほうがいいな」

「ええ?」


 そう言うわりに、お頭はうまそうにどぶろくを呷った。指に付いた団子を舐り、ひと口。また別の指でひと口。


「盃浦の松尾丸、か」


 丸は付かない、とはもう言い飽きた。村の仲間たち、特に子供らなどまで松尾丸と呼び始めたのもあって。

 それより、お頭がじっと見つめるほうが気にかかった。


「うん、なに?」

「いや俺の名が松浦まつうらってんだが。浦辺の松尾丸とは縁がありそうだ、ってな」

「へえ、松浦」

「おうよ、松浦のあつるだ。秋田の井戸端へ行きゃあ、たまには知ってる奴も居るだろうさ」


 他には言うなと、お頭は人さし指を唇に当てて見せる。


「うちの連中にもな。知ってるのも居るが、知らねえ奴と区別したくねえ」

「え、海賊のみんなにも? そんなの、どうして教えるのさ」

「言ったろ、縁のあるような気がするって」


 団子を一つ食い終わると、腹のむかつきがかなり治まった。景色の揺れるのは変わらないが、夢とうつつははっきりとしている。


「で、結局どこへ行こうってことだったんだ? 告げ口しようってんじゃねえ、行く先の当てなんざないだろって」

「言えない。外道丸が話せるようにならないと」


 父や村長と違い、悪巧みの仲間のような顔。そんなものに行く当てなどないと決めつけられては、そもそもどこかへ行こうとしたのでない、と事実を言ってやりたくなった。

 だが堪えて、空のどぶろくを飲むふりをした。


「外道丸がいいならいいのか」

「約束したからね」

「だそうだが、どうなんだ?」


 意味の分からないことを言う。不審の目で見たお頭は、小屋の入り口に椀を突き出していた。

 倣ってそちらを向けば、月光に誰かの影が動く。


「外道丸。ささは?」


 輪郭で見当をつけ、呼びかける。すると影は観念したように大きく息を吐き、小屋へ入った。


「寝てる」


 普段と変わらぬ声に聞こえた。逆光で、顔は見えなかったが。

 姿と声を晒した外道丸は遠慮の様子もなく、お頭の手から椀を受け取った。お頭もまた心得たと、どぶろくを注ぐ。

 溢れんばかりのどぶろくが、みるみる減っていった。三度の息継ぎを挟んだだけで、一気に空になる。


「うまい」


 どかっと、外道丸も腰を下ろした。


「逃げない、今。逃げる道、知りたい」


 どこか怒った雰囲気の、どこか不満げな表情と声。決してそれ以上でない、いつもの外道丸だった。


「そうか、そいつは大事だ」


 また突き出した椀に、お頭はどぶろくを傾ける。しかし二、三滴が散ったところで止め、「だがな」と。


「お前ら三人で、どうもならねえ。生きてはいけるかもしれねえが、それも運が良けりゃだ。まし・・に生きるには俺たちを使え。俺じゃなくてもいい、松尾丸の親父おやじはいい男だ」


 外道丸とお頭と。互いに腕を出したまま、二十も数えられる沈黙が続いた。終いに「分かった」と外道丸が頷くまで。


「それがいい」


 椀がまたどぶろくで満たされた。代わりに大とっくりを逆さまにしなければならなかったが。


「これも内緒話だ。どうして俺が海賊なんかやってるか、教えてやる。服ろわぬ者、なんぞ言われてもな」


 大とっくりの雫を名残惜しげに、お頭は直に口で受け止める。


「怖えからだ。一人で居たら、碌に寝ることだってできやしねえ」


 それは海賊をやる理由なのか。松尾は首を傾げたが、外道丸はまた「分かった」と椀に口をつける。「へっへっ」と笑うお頭が、外道丸から松尾へと視線を移したのは気づいただろうか。

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