第21話:文殊丸(七)

「ねえ、どこ行くの」


 お頭は広場を離れ、海辺への道を黙々と進んだ。握られたままの手首が軋みを上げそうで、「っ」と漏らしてもお構いなしに。


「逃げないから。着いていくから。離してよ」


 灯りも持たず、どこまで行くのか。目を瞑っても歩ける道だが、引き摺られて進んだことはない。

 まさか本当に懲らしめるのか。

 殴る、蹴る、と松尾には子供のけんかをしか思い浮かばない。まさかと言うならそれ以上、刀で切る──までは、きっとない。


 海賊たちが住みついて、一年以上になる。今さら本性を表すなどと、さすがに無理があった。まして自分のような子供に行って、なんの得があるだろう。

 と、怖れなくていい理由を忙しく掻き集めた。


「どうだ」


 夜の海を間近に見下ろし、お頭の足が止まる。どう、と言われても松尾は答えに困るばかりだが。

 時分を考えても珍しい景色でない。これから自身が浸けられるのでもなければ。


「ちっとは肝が冷えたか? なにも言わずに勝手をやるのは、やられたほうとすりゃ堪ったもんじゃねえ」

「それは、うん。悪いと思ってるよ」

「ならいい」


 ようやく、両手が解放された。じんと指が痺れるのを撫でつつ、こっそり安堵の息を吐く。


「入れよ」


 懲らしめとやらも終わり。そう思っていたが、お頭はまだ厳しい口調で見張りの小屋を指さす。


「まだなにかするの」

「懲らしめるって言っただろうが」


 息を呑む。いつもの、いいかげんな風がまるで見えなかった。お頭はさっさと、自ら先に小屋へ入った。

 踵を返し、逃げることは簡単だ。だが小屋の向こうの、もう一つの小屋を見やって腹を決める。


 見張り小屋の中に、必ず一人は居るはずの海賊たちの姿はなかった。今日はお頭がその役と言うのか、真ん中にどっかりと座る。


「飲め」

「ええ?」


 正面へ腰を下ろすと、椀が突き出された。お頭の傍らには、どぶろくの大とっくりが見える。


「飲んだことくらいあるんだろ」

「父ちゃんが、自分で作る物の味くらい知っとけって。一口だけど、最初は甘くて、でもすぐ熱くなって、それから頭が痛いだけだった」


 にやり。射し込んだ月明かりが地面に撥ね、お頭の髭面をいやに際立たせた。


「だから懲らしめることになるんだよ」


 なるほど?

 納得したようなしないような。曖昧な心持ちで頷き、椀を受け取る。

 飯でも汁でも、一杯で満腹になる大きさに半分。父のどぶろくを舐めたのは一度や二度でないが、これほどの量は初めてだ。


 ちらと窺っても、冗談だと聞こえる雰囲気はなかった。松葉の壁の向こうを見つめ、息を止めて椀を呷る。

 ぐっ、ぐっ、と。苦しくなるまで、喉に流し込む。


「ふうっ」


 息を継ぐ。白濁した液体は、半分ほどになったろうか。米の甘みが口と喉へ張り付き、この瞬間だけはうまいと感じる。

 しかし間髪入れず、腹の底で火祭りが始まった。その熱は猛烈な速度で胸に上がり、喉を冒し、頬や額を焼く。


「ううっ……」


 身体じゅうが火照った上に、まだ熱さが増す。病とは別種の気持ち悪さに俯くと、お頭に椀を奪われた。


「なんだ、残ってるじゃねえか」


 なみなみと、どぶろくが注ぎ足された。それをお頭は、顔の上で逆さにする勢いで傾ける。

 なぜ一滴もこぼれないのか。なにやら不可思議なできごとを見せつけられた心地がした。


「ほれ、もう一杯」

「う、うん」


 また差し出された椀に、半分の半分。およそ先ほど飲んだのと同じ量が揺れる。

 これほど飲めば、明日の陽は拝めないかも。焚き火も間近の熱を感じながら、松尾は受け取った椀に口をつけた。


「都まで、行ったことはあるか?」


 どぶろくを含んだまま、首を横に振る。懲らしめることとの関係は見えなかったが。


「大人の足で五日だ。俺なら四日だがな」

「うん」


 急いで飲み込み、焼ける喉を叱咤する。


「それから東。朝、お天道さんの顔を出すほうに二日で近江おうみの海へ着く。陸に囲まれてるが、でかい。船で渡るのにも半日かかる」


 なんの話だろうか。首を傾げれば、お頭の眼が椀を睨む。慌てて口をつけ、ちびちびと啜った。


美濃みの信濃しなのと行けば、富士の山とご対面だ。こいつぁ俺も見たことねえんだがな、どこのどんな山よりも高くて綺麗だそうだ」


 お頭は世の中のどんなものも見てきたような気がしていた。それをあっさりと覆され、がっかりしたのが正直なところ。

 ただし綺麗だと言った顔が嬉しそうで、一緒に見に行けたらと妄想が浮かんだ。


「その向こうが東国とうごくよ。締めて二十日ってところか、休まず歩いてな」

「遠いね」


 最後の一口を前に、思わず言った。するとお頭は、先だって見たしたり顔を再び披露する。


「俺の生まれたのは、まだ先だ。今日お前の歩いた山なんか、ああ楽ちんだって思うような道しかねえ」

「そんなに?」


 伸び放題の草と、日陰には苔やシダと、人間を拒まんとするかの尖った葉や枝。どうやって進むか以前に、どこを踏んでもいいのか分からない場所もある。

 あれが困難でなくなるとはどんな光景か、想像が及ばない。


「そんなにだ。同じ距離を進むのにも、この辺りの倍かかる。だからまあ、ここから歩けば、ふた月はかかるか。出羽でわ秋田あきたってとこだ、俺の故郷はな」


 大とっくりを片手で持ち上げ、お頭は喉を湿らす。こういう時たぶんこうするものだ、と松尾も一気に椀を傾けた。

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