第20話:文殊丸(六)
「どうしよう」
壊れた籠と水へ浸かった灯心を手に、松尾は呟いた。
けれど、答える者はない。すぐそこの外道丸も、ささの容態をしか意識にないのは当然。傷を押さえた布から、濃い色味の液体が滴る。
山伏と、文殊丸の連れの武士。浮かんだ嫌な連想を、違うと否定したかった。
違わない。このまま手をこまねいていれば、ささは彼らと同じところに行き着く。
松尾の足が動いた。がらくたを捨て、洞窟の出口へ。
灯りなしで岩穴は抜けられない。ならば進む方向は一つしかなかった。
「おい、松尾丸」
「どうにか村に帰ってみせるよ」
「犬が」
「まだ明るいし、大丈夫」
兄妹の前を過ぎようとして、もう一度呼ばれた。
「松尾丸。俺が」
「道が分からないだろ。それに、ささも外道丸が居ないと心細いよ」
嘘を吐いた。森に入れば、昼だろうと薄暗い。この洞窟の外も、砂浜があるとしか知らない。
次の声を聞く前に駆け出す。
苦しい中、目を開けたささが兄はどこかなどと問うたら。慰める自信もなかった。
洞窟の外は、焼けた砂浜が広がる。盃浦と違い、いつの間にかなだらかな草地に変わっていく。振り返れば、切り立つ岩壁が厳然と視界を塞いだ。この向こうへ、父や海賊たちが居るのに。
越えられる場所を探し、草地へ踏み込む。壁が岩から土に変化しただけで、登れぬのはそのまま。
やがて草地は藪に、藪が深い森になる。壁と並行しているかもあやふやに、松尾は足を緩めることなく進んだ。
甲高い獣の声がする。鳥の声かもしれない。
どちらから聞こえたか、立ち止まって耳を澄ます。がさがさと、なにかが草を分ける気配がした。
ただの風か?
いつもなら確実に聞き分けられるものを。今はなにもかも、己を狙う獣の足音に思う。
迷っても、竦んでも、時間を浪費するだけだ。自ら足を動かさねば、村へ着くことは絶対にない。
そう言い聞かせ、おののき怠けようとする足を進ませた。方向は間違っていないのだから、きっとすぐに知った景色がある。
「ひっ!」
とは言え、近くで音がすれば警戒せぬわけにもいかなかった。蔓や細枝を払うための太い枝を拾い、武器としても構える。
進めば進むほど、森は暗くなるばかり。夜にはまだまだ遠いはずと見上げれば、なるほど空が見えない。
張り出す枝葉は、盃浦の外にこんな木があったろうか。町へ向かった時に見た、変わりゆく木々の様子に自信が持てない。
まさか、やみくもに進むうち、全く別の土地へ迷い込んだのでは。悪いほうへ妄想が膨らみ続けた。
──どれくらいが経ったか。動悸が限界を迎え、足も震え、渇いた喉が海水でもいいから寄越せと訴える。
足を止め、膝に両手を突く。せめて息を整えねば、倒れてしまうところだった。
けえっ、と。頭上で鳥が啼く。松尾は縮み上がり、そこらじゅうに首を巡らせた。
「あれ、高い」
ふと見た後方の視界、切れた森の先に空が広がる。海はその下、低いところへ。村との間に聳えた岩壁など、とうに超える高さだった。
それなら。壁と並行するつもりの向きから、村の中央辺りを目指して走る。道なき道が、少しずつ明るくなる気がした。
「着いた……」
先ほどと同じような、森の切れ目。見下ろせば仲間たちの家と田畑。ここまで来れば、たとえ倒れたとしても大声で知らせられる。
* * *
夜。火を囲んでの晩の飯に、外道丸とささの姿はない。野草に詳しい村長の手当てを受け、二人の小屋で休めと言われた。
火を囲う大人たちにも、常の賑やかさは欠片もない。村長と父と、二人を前にした松尾とが、話すより黙っている時間が圧倒的に長かった。
「どうしても言わねえのか」
「外道丸と約束したから。勝手には言えない」
洞窟を通って、どこへ行くつもりだったか。問われたのは、まだそれだけだ。
「外道丸が、まだ誰のことも信用しきってねえのは分かる。たぶんそういう時、自分だけの逃げ道を確保しときてえって俺でも思う」
お見通しじゃないか。
さすが父は外道丸のことさえ、よく分かってくれる。と同時、分かっているなら自分が言わなくてもいいのではと、松尾は考えずにいられない。
「ささが落ち着いて、外道丸と揃って話せるようになったら言う」
その時になれば、松尾も外道丸を説くつもりはあった。だから待ってほしいと繰り返すしか、言えることがなかった。
「そうか。じゃあそれまで飯抜きだ」
ことさら静かに、父は言った。それきり村長も口を開く様子はなく、松尾は「分かった」と立ち上がり背を向ける。
朝の粥から、なにも食べていない。濡れた着物も自然に乾いただけで、べたべたと肌に張り付くのが気持ち悪い。
ささの痛いのに比べたら、なんてことないけど。
どうせこの場に居られないなら、具合いを見に行きたかった。だがそれは、父に当てつけたようで憚られる。
だからと家に戻るのも落ち着かず、どうしたものか歩く方向に困った。
「おう松尾丸。随分とやらかしてるらしいな」
のそり。行く手に立ちはだかるのは、お頭。しばらく
「そんなつもりはないんだけど」
「へっへっ。お尋ね者はみんなそう言うんだよ」
さっと、ごつごつした手が松尾の腕を握る。両の手首を重ねて持たれては、少々でなく痛んだ。
火から離れたお頭の表情は、よく窺えなかった。
「俺が懲らしめてやる」
低く唸ったお頭に、半ば引き摺って松尾は連れ去られた。
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