第19話:文殊丸(五)

「ああっ!」


 叫んだのは外道丸だったろう。松尾の目には、もう映らなかった。

 ささの、兄と繋いでいた手が助けを求めるように見えた。何者かが水底から引き摺ってでもいるように、まばたきの間に消えた。


 松尾は岩を蹴る。見失ったその一点を見据え、崩れた波が雪に覆われたかの海へ飛び込む。

 水の中も同じく白い。水面の上を暗い冬景色とするなら、下は吹雪の夜。つむじに巻いた雪の柱が、蜘蛛の巣の厄介さで絡みつく。


 掻いても、掻いても、自身が進んでいるかさえ定かでない。だのに、ささの姿は見えなかった。柿色の着物は陽の光を写したかに鮮やかだったはず。

 渦巻く潮が松尾の身体を転がした。右へ、左へ、実に気ままに。前回りなどさせられては、それどころでないと怒鳴りつけたかった。


 腹を揉まれ、背を踏みつけられる中、息が足らない。見当の半分も経たぬはずだが、苦しいという現実はどうもならなかった。

 急いて水面を捜す。しかし来た向きも分からず、上と下の感覚も危うい。どこを見ても、手の届かないあぶくに光が射して思える。


 深い。

 松尾もかなりの底まで沈められたらしい。ここから上がって息を吸い、また辿り着けるか。

 ──ささ。

 考える手間も省き、より暗いと感じるほうへ松尾は腕を掻いた。


 手が硬い物に触れる。

 水底の岩だ、掴み、見回す。力を篭めたつもりが、震える指は言うことを聞かない。滑って、身体が浮き上がろうとする。


 まだだ。

 ほんのひと掻き前に、荒れ狂う吹雪が集っている。渦の根本を幾つも束ねた、泡の塊があった。

 そこに居る。居てくれと願い、水流の壁を押し分けて進む。頬や腕など、幾重にも斬り刻まれる心地がした。


「返せ」


 最後の息が顎をこじ開けて出ていった。無我夢中で、渦の中心へ手を突っ込んだ。

 布。町で交換した木綿の手触り。

 渾身の力を振り絞り、両手で握る。どうする、と考えることはできない。ただただ岩を蹴り、浮かび上がることに必死だった。


「ぶはあっ!」


 千年ぶりにも感じる呼吸。みなぎった気力を全て腕に与え、連れて上がった誰かを岩場へ押す。

 ささだ。ぐったりと目を閉じているものの、見間違えようもない。


「……Rosaローザ!」


 なにより、兄が呼んだ。白い肌を青くした外道丸は、丸く見張った目に涙を浮かべる。

 松尾だけでは、押し上げる力が残っていなかった。だから引っ張ってくれ、と声も出せなかった。

 外道丸の眼が、鋭く光る。初めて会った時の獣の瞳とは違う。たった一人の妹に、どれだけの気持ちが向いているかを熱く湛えた。


 外道丸は雄叫びを上げ、ひと息にささを引き上げる。すぐさま「松尾丸!」と、また水底へ戻りそうなほうにも救いの手を差し伸べた。


「はあ……はあ……」


 男子二人が四つん這いで、ささのもとへ。目を閉じたまま、あまりにも静かだ。

 間に合わなかった。という最悪を、松尾は思い浮かべてしまった。けれどもかぶりを振って追い出し、まだ七つという女の子を呼ぶ。


「ささ! ささ!」


 外道丸も喚き散らしながら、妹の胸を強く揺する。言葉は分からずとも、「生きろ、帰ってこい」と聞こえた。


「けほっ」


 ちょっと咳払いというくらいの小さな声。ささは水を吐き出し、続けて咳き込んだ。


「ささ、良かった──」


 しつこく治まらない咳は苦しそうだが、命の危機は去ったはず。ほっと息を吐けば、外道丸もため息を吐く。


「松尾丸」


 ささを抱き寄せながらも、外道丸は松尾を見つめる。開いては閉じる口から言葉は出てこなかったが、松尾はもう一生分も聞いた気がした。

 

「うん、良かった」


 もういい。ささが無事なのだから、それ以上のことはない。

 そういうつもりで、外道丸と結ばれていた視線を切る。もし礼など言われれば、答えるすべを持ち合わせなかった。


 逸らした目に、苦しげなささの顔が映る。まだ咳が続いて、それは無理もない。

 濡れて着物の張り付いた肩は、思っているよりも細い。抱きかかえた感触は、あまり覚えていなかったが。

 ずり上がった袖が白い腕を丸見えにして、また見る方向を変えねばならない。


「あれ?」


 錯覚か。ささの右腕が真っ赤に見えた。

 おそるおそるに手を伸ばし、細い腕を取る。


「血が」


 ざっくりと、切れた肉の断面も露わな傷があった。二の腕の上から下まで、ささの身動きに合わせて血潮を噴く。

 毎日の暮らしで父に教わったことが、頭の中へ溢れ出す。が、道具もないこの場では手に余る傷だ。


「ど、どうしよう。血止めは知ってるけど、大きすぎるよ」


 慌てる松尾をよそに、外道丸は自らの袖を引き千切った。傷口を塞ぎ、細く割いたものできつく縛る。

 それでも宛てがった布に朱が浮くのは、すぐだった。外道丸は手でも押さえつけるが、効果はいかほどもない。


「知らせてくる」


 大人を頼る。となると経緯も明らかにせねばならないが、外道丸は頷いた。「頼む」と、ずぶ濡れのささを抱きしめて。


 任せろとは言えない。こうなったのは自分のせいだ、と松尾は思う。黙って頷き、元来た横穴へ走ろうとした。

 いや、それには籠提灯が必要だ。どこへやったか、もちろん手の中にはなく、嫌な予感に寒気がする。


「あ……」


 海へ飛び込んだ時か。濡れた岩場へ転がり、火の消えた籠提灯に察した。

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