第18話:文殊丸(四)

 どぶろく様にお祈りしなかったから、かな。

 毎日、あまり意識もせずに行ってきたこと。今ここへ居るのも、大人たちの言いつけに背いている。

 だからそのばちなのかと。胸の奥へ鎖で巻かれたような冷たさに、松尾は震えた。


「うん。そうだね、信じてもらえるようなことしてないや。朝は粥で、晩には火を囲んで。一緒に居るだけで」


 このごろは子供たちの遊ぶのに、ささも混ざる。追う側と逃げる側の区別もつかず、走り回る程度だが。

 必ずその場に外道丸も付き添う。共に駆けずりはせずとも、と思っていた。


「ごめん。もっ──」


 熱く込み上げてきたなにかが、鼻頭に集う。

 違う。これでは外道丸を責めているようだ、と眉間から眼の回りからを松尾は強くこすった。


「もっと、色々あるよ。外道丸と、ささにしてあげられること。たとえばほら、その」


 思い浮かばない。そんな馬鹿な、いつもこまごまとしたあれこれを考えていたはず。

 だが、そう感じることそのもの。結局はなにもしてこなかった証明と気づく。


「本当にごめん」


 すうっと冷える。己に呆れた松尾は、深く頭をうなだれた。

 けれどもすぐ、つっかい棒をするかに肩を押すものがある。手だ、外道丸の。


「違う」


 上げた視界いっぱいに、外道丸が居る。真正面で、首を大きく横に振って。


「え」

「信じる。Vaterファーター──父ちゃん? 母ちゃん? 捕まった」

「うん?」


 脇へ座る妹に、兄の目が注ぐ。見返した無垢な瞳が、次いで松尾にも向き、不器用な笑みを作った。


 信じる父と母と、共に捕まった? いや、意味は分かるものの脈絡がない。

 信じる父と母に捕まった? それでは、ゆうべの絵と異なる。兄妹を捉えたのは住む場所の外からやってきた大人。


「父ちゃん母ちゃんを信じ……てたのに、捕まった?」


 意味の通る言葉の並べ方、繋げ方は他に思いつかない。が、否定されるほうがありがたかった。これが正解なら外道丸とささを囚えた誰かは、外道丸の父母が招いた意味になる。


「信じる。分からない」


 怒りの色の眼が細まる。ぎゅっと奥歯を噛み締める音。外道丸の脳裏にどんなものが映っているか、考えるのも恐ろしかった。

 ただ意識せずとも、松尾は父を思い浮かべていた。村長も、その妻も。


「信じるとか、信じないとか──?」


 なにを基準にすればいいか、分からなくなる。松尾を可愛がってくれる大人たちが、突然に信用できないとなったら。

 二度と誰かを、父ちゃんや兄ちゃんなどと呼ぶことはあり得ない。失ったことのない松尾にも、それくらいは想像が及んだ。


「分からない」


 歯噛みして、外道丸は言った。松尾に向けてでなかったかもしれないが。


「いいよ」

「ん?」

「いい、って言った。信用してもらえなくても、って言いきっちゃうと悲しいけど。いつか、でいい」


 早口になる。恰好良く、父のように落ち着いて言いたかったが。


「代わりに、なにがあっても裏切ったりしない。誰が悪く言っても信じない。外道丸と、ささと、二人がどうしたいかを信じる。世の中の誰が敵になっても」


 今までなにを言っても、どういう意味かと問われたことがなかった。ゆえにこの兄妹に、どれだけ伝わっているかも分からない。

 まだしも、ささは嬉しい時に微笑んでくれる。いいのかなと危ぶむような、儚い笑みを今また見せてくれる。


 外道丸は怒りと困惑と苦悩と、ともかく迷う表情を煮詰めたかの顔を浮かべた。

 もう一度、今度はゆっくりと言えるだろうか。意を決した言葉を再度となると、松尾は気恥ずかしさをも乗り越えねばならない。


「行こう」


 続く声は、外道丸が先になった。ふうっ、と深呼吸の息遣いで立ち上がり、おそらく行く先を探して辺りを見る。

 難しいことはない。幾つかある岩の裂け目の、大きなものが出口だ。そちらを指さすと、真白い手が目の前へ突き出された。


 握り返すと、松尾自身の力は必要ないくらいに強く引き起こされる。「あはは」と笑ったのは、越えられなかった気恥ずかしさだ。

 幸い、外道丸も皮肉げに口角を上げてくれた。


 湯の湧く大きな空洞から、横歩きに二十間以上。途中、深さの知れぬ谷の脇を進み、腹這いでやっとの穴に入る。

 我ながら、よくも見つけたものだと松尾自身が思えた。横穴の先、外の光が見えるからだが。


Wowわぁ……」


 松尾に続き、ささが。直ちに外道丸が穴を抜け出る。二人は揃って、ため息めいて見回した。

 たしかに驚くかもしれない。自分はどうだったか、松尾は振り返る。


 いまだ洞窟の中途。外と呼ぶべき場所まで、三十間はあろうか。ただしもはや、籠提灯は必要がなくなった。

 大人が十人分の高さ、五人分の幅。半ばを海水に浸した巨大な岩穴に昼過ぎの陽光が撥ねる。明るいにも関わらず、目に映るのは白と黒の不可思議な景色。


「出たら砂浜があるよ。人も獣も居ない」


 案内の必要もないがここまで来たのだ、洞窟の外を早く見てほしかった。

 外道丸は頷き、走る。ささの手を引いて。


「海藻が滑るよ!」


 足元は、およそ平らと言っていい。波に洗われた夥しい凹凸は鋭く、そうでなくとも足を取られるけれど。

 兄妹は聞き届けたか。不安に駆られ、十歩遅れて松尾も走った。


「外道丸、ささが!」


 間なし、幼い足取りが絡まる。横滑りに倒れ、打ち寄せる波間に滑り落ちた。

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