第17話:文殊丸(三)

 風の通る隙間を空け、隣に眠る父を闇に透かす。

 子供だけでも村の外へ出られる道。目を瞑れば自然と思い浮かび、息苦しくなってまぶたを開く。

 ずっと、およそ朝までその繰り返しだった。


 いつもどおりを装って朝の粥を食い、田んぼの草を抜き、海賊たちに粥を持っていく。

 父に手伝いを問う気にはなれなかった。


「ハマナでも採ろう──」


 畑に作る青菜に似た、厚みのある柔らかい葉。癖がなさすぎて食った気がしねえと父は言うが、松尾は好きだった。

 村へ戻る階段の脇、群れて生えるところへ腰を屈める。


「松尾丸」


 頭の上から声がかかった。

 外道丸だ。見上げずとも、松尾と同じ括り袴に藁草履が階段を下りてくる。行こうと言われるなら、この時間だろうと予想もしていた。

 ただ、予想外もある。外道丸のあとに、もう一人分の足が見えた。やはり村の女の子と同じ、筒袖と藁草履で。


「ささも?」

「行く。俺と二人」


 当然だ、なにを言っている。

 首を傾げる外道丸の顔が、そう言っていた。ともすれば自身より大切に扱うのでは、という妹だ。逃げる時は一緒にとは分かる。


「でも今日は、道を知りたいだけって」

「うん」


 本当に通じているのか。あっさり頷かれると、逆に不安になった。

 だが兄の腰紐を掴み、ささが上目遣いで松尾を見る。これでは、嘘じゃないのかと問いただすのが難しい。


「ええと、狐も狼も熊も居ないけど。危ないところもあって」


 男の外道丸はともかく。畑仕事も手伝ったことのない、ささは体力的にどうか。

 問うてみたものの、なおさら「行く」と即座の返答があるだけだった。


「じゃあ、着いてきて。本当に気をつけて」


 辺りを見回し、静かにと指を唇へ当てる。

 海賊たちの姿は見えない。崖上の見張り小屋は死角になる。そういえば、お頭はそろそろ戻ってくるだろうか。

 迷う気持ちが、余計なことも考えさせた。


 足音を低く、洞窟へ近づく。中で作業をする父に気づかれれば終わりだ。

 振り返ると、外道丸がいつもの厳しい顔で頷く。ささは兄から手を離し、なぜか頬をいっぱいに膨らます。


「ささ、息は止めなくていいよ」

「ん」


 言われて、真っ赤になった頬が白さを取り戻す。思わず笑いそうになったのを、堪えるのが至難だった。


「たぶん、すぐ行けるはずだから」


 枝分かれした洞窟の味噌のあるほうへ、父は最初に入る。音を聞き、今日も間違いないとたしかめた。

 しかし、どぶろく様の前を過ぎる時。父が入口近くへ居れば姿を見られてしまう。静かに燃える松明を恨みながら、こっそりと覗いた。


 居ない。

 父は味噌むろの奥に居るらしい。今だ、と兄妹に合図を送り、酒室へ急ぐ。

 十歩ほどを入り、置いたままの籠提灯かごちょうちんを取って振り向く。が、二人の姿はなかった。早足で戻れば、揃ってどぶろく様の前。祈るささを、外道丸が待っているようだった。


 今日は自分も祈っていない。思い出したが、今にも父が来るような気がした。

 早く。

 籠提灯に火を移し、声にならぬ声で必死に急かす。ささが眼を開け、ようやく外道丸が背中をそっと叩いた。

 奥へ進む金銀の頭に、松明の明りが撥ねる。


「最初は広いんだけど」


 楕円に広がった酒室の奥。大人でも通れそうな岩の裂け目に入る。たった十数歩で完全に閉じてしまうが。

 突き当たって、「上」と指さす。大人の背丈より高い位置に、横穴がある。両側の岩壁に腕を突っ張り、己の身体を持ち上げて登った。


「ずっと、こういう道だけど」


 ささは行けるか。横穴から手を下ろし、問う。返答の代わりに、女の子の柔らかい手が握る。

 力を篭め、かといって急かさぬように引く。意外にも、ささは岩の凹凸を器用に使った。抱き合う格好で横穴に引き摺り込み、さっと離れる。

 すぐさま、ささは兄のほうを見下ろした。


 さすが外道丸は、松尾よりひと回り大きな身体に見合って力強い。横穴を這って進むのには難儀だが、さらに狭い場所の記憶はなかった。

 裂け目を下り、また横穴を抜け、家と同じくらいの空間に出る。


「行けそう?」


 訊ねる松尾の息も、少し乱れた。距離としてはまだまだ、三十間も進んだかどうか。

 外道丸も息を整えるように、大きく呼吸を繰り返す。心配なのはやはり、ささだ。

 何気なさを醸しつつ、籠提灯を向ける。思ったとおり全力疾走の直後のように、全身を使って息をするありさま。


「休もう。お湯もあるし」

「お湯?」


 歪ながらも円形の空間に、小さな泉がある。前に来た時はあったけど、と急な不安に怯えて探す。


「ほら、ここ」


 空間の全体が海のほうへ少し傾き、その端に水溜まり程度。触れれば疲れの抜けるような温もりがあり、光を翳せば透き通った。


「飲んでもおいしいよ」


 あいにく、椀も竹筒も持参しなかった。迂闊に歯噛みし、両手で湯を掬う。川の水を沸かしたのと変わりない、普通の湯だ。

 さすが外道丸は浸した指先を自分の口へ入れ、直ちに場所をささへ譲る。


 ささが満足すれば外道丸が。外道丸が飲み終われば、あらためて松尾が。

 それぞれ人心地というところで、誰からともなく足を伸ばして座り込んだ。あまりゆっくりもしていられないが、ささにはまだ休息が要る。


 それにしても、ずっと沈黙では気に病むのでないか。籠提灯の頼りない灯り一つでは、いちいち表情を窺うには足らない。

 なにか話そう。なにかないか。考えるうち、ふと思いつく。

 

「──聞いたことなかったけど。外道丸って幾つ? 歳、僕は九つ」

「十と一つ」

「ささは?」

「七つ」


 そんな歳で、松尾には想像もつかない事態を乗り越えてきた。考えようともしないのに、よく無事でいてくれたと喉が詰まる。


 十一って、文殊丸と同じか。

 武士の、それもきっと身分の高い子。誰かに攫われるなどとあり得るのか、松尾には分からなかったが、外道丸と比較せずにはいられない。


「村のみんな、いい人だよ。すぐに信用しろって言っても無理だろうけど」

「分かる。殴らない」

「うん、そうだよ。みんな外道丸とささのこと、心配してる」


 村の仲間たちを嫌ってはいないらしい。それだけでも、暗い洞窟の中が光で満ちたかに錯覚する。

 いつかこの兄妹も、村の仲間だと自ら感じてくれそうだ。そう思うのを口にすれば、重荷に違いない。どうにか堪え、別の言葉を絞り出した。


「良かった。最初に信用してくれたのが僕なんかで、頼りないけど」

「信用?」


 たぶん、おどけてごまかした。そう感じる己の言葉に、外道丸は低い声で問い返す。


「う、うん」

「ない」


 怒るでなく笑うでない、淡々とした外道丸の声。松尾の耳に鐘の音のごとく残り続ける。

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