第16話:文殊丸(二)
「な、なんで? 嫌なことでも」
知らぬ間に、誰か意地悪でもしたのか。それとも松尾自身が、外道丸やささの気に障ることをしたか。記憶を探るのと問うのとを同時に行い、声を詰まらせた。
「うん?」
「だって、村を出るっ──」
首を傾げる外道丸に、松尾の声は高く強くなろうとした。が、殴りかからんばかり突き出された手に口を塞がれる。
突然にどうした。若干の痛みも相俟って、もごもごと言葉にならない声を上げた。
対して外道丸は、首を静かに横へ振る。続いて立てた人さし指を唇に当て、氷の色の瞳を頷かせた。
「犬、熊、雪。危ない」
闇に融けた村の周りを、外道丸の指先は撫でる。ちょうど海の方向だけを除いて。その最後、硬い爪が松尾の喉へ当てられ、顎の自由も戻った。
「町、行った」
「行ったけど。外道丸も行きたいの?」
鬼に遭った一年前から、松尾が町へ出かけたのは一度きり。まだそのころ外道丸は、自分からは小屋を出なかったはず。
なんだ、村の外へ出るのが羨ましかったのか。
それなら分かった。町へ出かけた父を村長の家で待つ時、寂しさと一緒に持った気持ちだ。
「
また水平に首を動かし、切り株へ戻る外道丸は歯痒げに唇を噛む。
違うのなら、やはり村を出ていきたいのか。しかしそれなら、松尾にどうこうできることでなかった。言うように、一年を通して森には危険が多い。
「……って。なんで? なんで熊とか狐とか、危ないって知ってるんだよ」
居る、と誰かから聞くくらいはあっただろう。だが外道丸の言い方は、そういうものでなかったと松尾には思えた。
「まさか、森に入ったの? 一人で村を出ていこうって、試したの?」
大人に知られれば叱られる、では済まない。先ほどとは反対に、松尾の声は細まっていった。
三たび、外道丸は
「うーん、よく分からないけど。村の外を見てみたいってこと? 子供だけは無理だけど、父ちゃんに言えば連れてってくれると思うよ」
村を囲うのは山と言うほどでない。けれど子供の足で、すぐに越えられるほど短い距離でもない。
村の大人たちは、だから絶対に勝手に森へ入るのだけは駄目だと繰り返し言う。
「大人、良くない。子供だけ、捕まる」
「捕まる?」
父が子供を捕まえるとは、人聞きの悪い。いや、いたずらをして叱るためならばやるだろうが。などと脈絡を無視して話す外道丸ではない。
必死に理解を試みていると、真っ白な手が小枝を拾った。地面に円を描き、その中へ家らしき三角形を幾つも。
合間合間へ、大小の人の形もあった。小さいものを描く時、もう一方の手が外道丸自身や松尾を指す。
やがて最初に描いた円の外へ、大人が加えられた。そこから線を引っ張り、子供のところへ繋がる。
と、枝先がぐしゃぐしゃに子供を掻き消す。
松尾はその意味を測りかね、見下ろしていた視線をハッと上げた。
外道丸は己の首に縄をかける動作をした。輪にした先を誰かが握っている。嫌がっても、無理やりに連れていかれた。
言葉の補足こそなかったが、それ以外の理解は思いつかなかった。
「子供だけ逃げる。知りたい」
良くない大人が、子供を捕まえる。ついさっき聞いたばかりの言葉が、鉄の重みで伸し掛かった。
大人とは。
意味するところが、頭の中へ像として浮かびかけた。松尾は慌てて振り払い、じっと青い瞳を見据えた。目の前と、数歩先と。
「……父ちゃんは大丈夫だよ」
そう喘ぐように言うまで、時間にすれば十を数えるほどもなかった。あまりに多くのことを考えた気もするが、思い返しても脳裏になにも残っていない。
その上で言えること。あるいは言いたかっただけかもしれないのは、父のことだ。
聞いた外道丸は落胆するだろう。という予測は大方で当たり、盛大な舌打ちを聞いた。見るからにやれやれと呆れた顔で、肩を竦めもした。
「それだけ信用してくれたら教えるよ、子供だけでも外へ出られる道」
珍しく、ささの方向からさえ顔を背けた外道丸が、少しずつこちらへ向く。じらしたつもりはなかったが、彼の眼は「本当か?」と疑って見えた。
「大丈夫だよ。ああでも行く時は僕も一緒にって、それも約束」
火の向こうの大人たちに、こちらの声は届かない。爆ぜる音で、回りの子供たちにもきっと聞こえない。それでもさらに松尾は声を潜めた。
数拍。無言の外道丸がおもむろに腰を上げ、ささのところへ向かう。同じく父や村長も、いまだ残る男たちに「そろそろ寝ろ」と追い返しにかかった。
「明日」
すれ違いざま、ぼそっと。見間違いでなければ、初めて外道丸の口もとは笑った。
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