第6話:外道丸(一)
遠い町への往復から、ふた月以上が過ぎたころ。遥か水平線を眺め、松尾は浜辺に足を投げ出した。風はだいぶ温くなり、梅雨の気配を覗かせる。
視界の右から左、大きく弧を描く浦。左右のどちらも、突端を切り返すように細い磯が飛び出る。その様から
白く荒ぶる波打ち際は小石だらけで、村とを隔てる急な斜面のほとりだけが、ようやく砂浜と呼べた。
「鬼……」
あの夜、文殊丸は怪我を負った。直ちに寺へ運び込まれ、朝まで他の武士たちに囲まれていた。
明るくなると、すぐに京へ帰っていった。松尾たちもまた市へ向かったので、大丈夫かと声もかけられなかった。
文殊丸は歯を食いしばり、痛みに耐えていた。そんな中、時に震える声を絞り出した。「鬼の首はあるか」と。
すると付き添う武士は「ありますとも」と、「文殊丸殿のお手柄です」と励ました。
「なんでだ?」
なんのために、ああまでするのか。
恐ろしい鬼を退治してくれるのは、ありがたい。しかし文殊丸だけでなく、他の武士も怪我をしていた。
誰も問わなかったが、白い布を全身にかけられたままの武士も居た。
なぜだろう。なぜあんな化け物が存在するのだろう。武士は、文殊丸は、なぜ戦うのだろう。
毎日どれだけ考えても、なに一つ分からなかった。
「おぅい松尾、手伝ってくれぇ」
父の声がした。浜の右手を塞ぐ、切り立つ岩壁。その足下、ぽっかり空いた洞窟から。
ふっ、と。どこか彼方へ飛んでいた意識が、この場所へ戻る。父が呼ぶのだ、なんだろうとも考える前に身体が動いた。慣れた足取りが、浜を覆う石に取られることもない。
「今日のどぶろく、運んでくれるか。見たら、味噌がちょうど良くてな。父ちゃんはそっちを持つからよ」
洞窟の中は、いつも暖かい。松尾には広々とした横穴を十間余り。二又に分かれたところへ父の姿があった。
壁の窪みに
父はこれを、「どぶろく様のおかげだ」と拝む。仏像のように見えるかと言えば、まあ父が言うのだからと松尾も拝む。
「あれ、ハマセリは置いてきたのか」
突き出された大とっくりを受け取ろうと、松尾は両手を出した。約束したハマセリは、一本たりと岩の地面に落ちない。
「あ……」
呆然と己の手を見つめても、湧いて出ることはない。
「なんだ、また鬼か」
「うん。文殊丸とか──」
「山伏とか、武士とか、怪我とか死んだとか」
口ごもった先の言葉を父が継ぐ。ぼうっと呆けるのはたびたびで、似た会話を何度繰り返しただろう。
「うーん、どうしたもんかなあ」
「ごめん。ちゃんとするよ」
大とっくりを受け取り、空いた父の手が頭を掻く。松明を背にした顔は見えなかった。
「いや。そんな悩むってのは、いいことだと思うぜ。俺なんかすぐ、どぶろく飲んで忘れちまえってなもんよ」
忘れたほうがいい。というより、考えても益がない。また武士と会う縁はあり得ず、鬼をどうこうもできないのだ。
「ああ松尾。そんな顔させちまって、悪い父ちゃんだ。都へ行こうとか言ってやれりゃあいいんだが、ほんと悪いな」
父は膝を折り、松尾と同じ高さまで視線を下げた。真ん中に寄せられた眉が、松明の光に揺れる。
意味ないのに。
こんなことで父を困らせるとは、ぎゅっと力の入った腕が大とっくりを割りそうに錯覚する。
「気休めしか言えねえが。一度は会ったんだ、またいつか会うこともあるさ」
返す言葉が見つからない。唇を固く結び、逞しい肩へ額をこすりつけた。
すぐにハマセリを採ろうと思ったのに、なかなか洞窟を出られなかった。頭を撫でる父の手が心地良かったからだ。
どれくらいか定かでないが、おそらく相当の時間を過ごした。それは洞窟を出て、入る前にはあり得なかった光景に知らしめられる。
帆を備えた船が、岸に着けようとしていた。それも六艘、村の者が漁に使う二人乗りとは何倍もの大きさだった。
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