第5話:服ろわぬ者(五)
「
髭の男は早口で難しげな言葉を並べた。松尾は理解を諦め、文殊丸という少年を見つめる。
丁寧に結わえた髪を抜きにしても、単に小綺麗というだけでなかった。気安く「遊ぼう」などと言ってはならない、そう誰に咎められるでなく思わされた。
「つまり、この辺りの悪党を懲らしめに来たってことで?」
「いかにも。善良な民の住む土地へ順に赴き、帝の御心に服ろわぬ者について聞く。それで今回は、この町となった」
父と髭の男と、文殊丸はどちらの声にも繁く頷く。組んだ足、伸びた背すじは微動だにしない。
「はあ。そりゃあ菜っ葉のひと株やふた株、くすねるようなのは居るかもしれませんがね。十何人で取り囲む相手となると──」
「いやいや、相手は決まっておる。鬼だ、近ごろよくあると聞いた」
鬼。
不意打ちに聞いたその言葉が、松尾の心を冷えさせる。
あの山伏が今にも駆け込んでくるような、あの重々しい魂を磨り潰すかの足音が聞こえるような。思いだそうともせぬ間に、座る床があの仏堂としか見えなくなった。
「お前、鬼を見たことがあるのだな?」
誰か、笛を鳴らしたか。いや祭を囃し神事を律する硬く低い音色は、あの夜にあり得ない。
悪夢を手放し我に返ると、文殊丸の手が握手を求めるかに差し出されていた。思わず、握り返そうと手を伸ばす。
だが、そもそも届かぬ距離。己の手が激しく震うのを見るだけに終わった。
「すまん、怖ろしい目を思い出させたか?」
「ああ、いえ。ゆうべ、うまくやり過ごしたんですがね」
答えようにも、喉も詰まった。一拍の間を置き、代わって父が言った。
「そうか。実は恥ずかしながら、私は見たことがない。元服前を言いわけにしていたが──お前の歳は幾つだ?」
「や、八つ」
唾を飲み込み、どうにか息急いて答えた。すると文殊丸は、にいっと口角を上げる。
歯を見せない、整った笑みだった。祭の面に似た物のありそうな。
「本当に恥じねばならんな、私は
後ろへ置いた背負子を、文殊丸は首を伸ばして見る。分かりにくかったが、褒められたらしいとは察した。
だとすると大人の半分の荷が恥ずかしかった。
「ええ、俺が言うのもなんですがね。こいつが居なけりゃ仕事に困るくらいで」
「それは凄い。私の言うことではないが、これからも父の助けになってくれ」
「は、はあ」
返答というより、どう言ったものか分からぬまま息が漏れたに等しかった。それでも文殊丸は「うん」と頷き、視線を父に動かす。
「して、ゆうべ見た鬼とは」
「うーん、見かけたってだけですがね。北の峠を
打ち捨てられた小屋を借りていたところ、鬼に追いかけられた男が喰われた。そう、父は至極あっさりと話す。
「先の峠か。鬼の色は」
「ええと、松尾。何色だったっけな」
「青かった」
父は松尾を慰めていて、外を見なかった。しかし一緒に見たことにすれば、主に答えるのは父でいい。
父の小さな嘘を、松尾は奥歯で噛みしめる。
「この町に出る鬼とは違うようです」
「うん、そうらしい。今宵の首尾如何で、足を伸ばすか考えるとしましょう」
文殊丸が違うと言えば、髭の男は嬉しそうに答えた。
今夜わざわざ鬼に会うというのに、その次の話に喜ぶ。武士とはどういう思考をするやら、松尾にはさっぱり分からなかった。
* * *
寺の者が用意した粥を食った武士たちは、陽が落ちてすぐに出かけていった。
松尾の一行にも同じ粥が振る舞われた。あまり食べたことのない、黄色い
聞いていたとおり、それから納屋へ移った。と言ってもまだ新しげな納屋が建っていて、案内されたのはあちこち破れた古いものだ。今夜だけのことで、なんら不都合はなかったが。
「何人か喰われたって」
「ああ、最初のころにな。知ってたって、どうしても外を歩く用事はあるだろうし、困るさ」
なかなか寝つけず、松尾は父に話しかけた。
この町に出る鬼は、大きな通りを練り歩くと聞いた。ある日は上流の方向から下流へ、別の日は反対へ、その次は行って戻ってと決まった行動はないのだと。
住民はどんな用事があっても、夜は外に出られない。冗談でなく、小便もできない。
「前に来た時は居なかったの?」
「うん、聞かなかったな。鬼も気に入る土地へ動くんじゃねえか? 知らねえけどよ」
二階の高さの屋根を見上げ、思い返す。いや鬼の姿を見ぬように、文殊丸の姿を無理やりに浮かべた。
たった二つ違いの少年は、無事に帰って来るだろうか。
「鬼はどこへ居たっておかしくないんだよね」
「そう聞いてる」
「うちの村は? 夜、鬼に気をつけろなんて言われたことないけど。父ちゃんは見たことあるのか?」
暗闇の中、父の声が止まった。数拍の沈黙の後、考え込む風の呻きが聞こえる。
「うーん。言われてみりゃ、うちの村じゃねえな」
「なんでだろ」
「さあ、見当もつかねえな」
永遠に出ないのなら喜ばしいが、理由が分からないでは不安だった。今までが偶々で、これからあるのかもしれない。
しばしの沈黙があり、父の寝息が聞こえ始めた。またさらにしばらく、やがて複数の怒声が届いた。
なんと言っているか、最初は分からなかった。耳をすますうち、聞き取れるようになる。
「追え、一匹たりと逃がすな!」
「怪我人は捨て置け、必ず戻る!」
文殊丸の声に聞こえた。この寺のほうへ来る気配とあって、どうにも寝転んでいられない。
隣の父にも気取られぬよう、そっと起き出す。入り口の引き戸を、細心の力加減でゆっくりゆっくりと開く。
川沿いから寺へ、緩く曲がった通りが見える。降り注ぐ月光が、少なくとも武士と鬼の判別はつけさせた。
「ふ、二人も」
昨日より、一回り小さかった。ながらも、どの武士より大きい。頭頂に角があり、ぼろ切れを纏うのも同じ。その鬼の姿が二つ、武士たちに追われてやってくる。
十数間ほど先。道の両際に家屋が途切れ、小さな茂みだけとなった。二人の鬼は示し合わせたように左右へ分かれ、一方は川へ、もう一方は山の方向へ逃げようとする。
「抑えよ!」
文殊丸の声。家屋の裏を抜けてきた二人ずつが、それぞれ鬼の行く手を塞ぐ。
吼えた。鬼が。
人の喉ではきっと真似のできない、獣としか思えぬ声で。
低く、低く、地の底から滲み出すかの泣き声。自身もべそをかきつつ、松尾はそう覚えた。
「服ろわぬ者、この文殊丸が滅して
鬼の一人に、文殊丸は叫んだ。刀を肩の高さへ構え、ちょうど振り返った鬼に走り込む。
白く光る切っ先が、鬼の影に呑み込まれていく。松尾よりほんの少し長い、腕の先まで。
「くうっ!」
遥かに長く太い腕が、横薙ぎに弾き飛ばした。文殊丸はただの球のごとく転がり、茂みへ大の字に横たわる。
「文殊丸殿!」
おそらく髭の男が駆け寄り、その間に別の武士が鬼へ切りかかった。
鬼は逃げない。文殊丸の刀を抜こうともがき、歯ぎしりをする首がもげた。巨体は今さら逃げ惑うかに、ふらふらと左右へ揺れる。
そして、糸の切れたように崩れ落ちた。
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