第3話:服ろわぬ者(三)

 ──格子から、燻るような朝が垂れこめる。湿気た空気に、松尾は一つくしゃみをした。しかし、まるで寒さを感じなかった。


 腫れぼったいまぶたをこすろうとして、手も腕も動かない。見れば父の腕が、背中から抱きすくめていた。

 指先で筋の一つずつまで数えられそうな肉塊。大人たちがあくびをしたり顔を撫でたりし始める中、松尾はもう少しだけと頬擦りをして過ごす。


 やがてむくりと起き上がった父が、仏堂を出て火を熾した。心得て松尾は、目の届く距離を歩いて回る。ただし戻る方向にだけ。

 集めたふきのとうと、長けた山草。白米のくつくつ煮える鍋に千切って放り込み、「うまそうだ」と父が塩を振る。


 できあがった粥は、実際にうまかった。がつがつ掻き込む仲間たちと同様、父の椀が二度も空になった。

 最後に鍋底へこびりついた焦げを、刮げた父の指が突き出される。甘えたようで恥ずかしく、同時に誇らしく感じながらしゃぶりついた。


 腹を満たせば、他に準備というほどはない。強いて言うなら、短い後ろ髪を括り直すだけ。

 みな各々が背負子を持ち、七人の列を作る。大人と同じ物を松尾も負う。積まれた木箱は半分だが、村を出る前の父はさらに半分でいいと言っていた。


 行く手にすぐ、丸く広がった黒染みに出くわす。草葉に鮮紅が残り、松尾は閉じようとするまぶたを堪えた。

 先頭から一人ずつ、拝んでは通り過ぎる。自分の番になると、松尾は「うんっ」と腹に力を入れた。気合いを入れたと見せ、上がりかけた粥を飲み込むために。

 さておき誰かに倣わねば、念仏も唱えられない。だから小さく、「じゃあな」と告げた。


 * * *


 町まで、小さな峠を三つ越えた。高く連なる山々の裾を舐めるように。洗濯にちょうど良さげなせせらぎにぶつかり、誰かが「着いた」と息を吐く。

 陽が中天を過ぎたのは、しばらく前だった。先を見ると、平らな土地が遠く広がる。踏み固められた道沿い、田畑に人の姿があった。それだけで松尾の村の人数を超えて見えた。


「精が出ますなあ」

「やあ、ご苦労さん」


 一行の最年長が愛想を言えば、誰も手を止めて答えた。三角形の骨組みに分厚い茅葺きの家。子供が赤子をあやし、目を配る母親はなにをか忙しく動き回る。


「うちの村と変わらないねえ」

「そりゃあな」


 目に映る一つずつは、よく似ていた。そう口に出せば、父も否定しない。

 だがどこか引っかかる。どれだけ首を捻っても、正体に辿り着けなかったが。


 しばらく行くと、板作りの家が立ち並ぶ通りへ出た。家と家が隙間なく隣り合うなど、松尾には初めて見る。

 用を頼むのも頼まれるのも、便利そうでいいや。

 もの珍しく思う目に、また見慣れぬ光景が映った。軒先にむしろを敷いて座り、作物を並べた者が居る。

 それはその一人だけでなく、あちらにもこちらにもまばらに。品物も織った布や糸、瓢箪やとっくり入りの酒や油、種々さまざま。


「父ちゃん。あれ、なにしてるんだ?」


 訊ねる間に、筵の人々から声がかかる。


「おっ、どこから来なすった? 見ていかないか、ぜにでも物でもいいからよ」

「あら坊っちゃん、ちょうど甘汁があるんだよ。持ってかないかい?」


 大人だけでなく、自分まで呼ばれるとは予想になかった。驚いたものの、なにやら小さな包みを突き出され、松尾は手を伸ばそうとした。

 持っていけと言われたからだが、その女が優しげに微笑むのも手伝った。


「いや悪い、持ち合わせがねえんでな」


 触れかけた包みから、松尾の指がさっと遠退く。勢いによろめく身体を、引き寄せた父の手が支えた。

 途端、女は舌打ちをする。


「なんだい、甲斐性ないね」

「悪いな」


 笑って見せる父と裏腹、女は表情を消した。あげくあっちへ行けと追い払う仕草まで。

 それでようやく答えが見えた。町に入って感じた、松尾の村との違いを。


「父ちゃん、なんだここ」

「市だ、本番は明日だがな。物を手に入れようと思ったら、こっちも出さなきゃならねえ。銭は持ってねえんだ、出すとすりゃあ干物になる」


 通りを抜け、大きな川へ差し掛かって問うた。父は後ろ手に、荷の木箱を叩いて答える。

 なるほど、単に物をくれようと言ったのでない。苦労して持参した荷の使い方も分かった。けれど本当に聞きたいのはそこではなかった。


「みんな、機嫌が悪そうだ。揃って夫婦げんかでもしてんのかな」


 町の住人は笑わない。これだけの数、虫の居所の悪い者が居ても当然として、誰一人。

 共にやってきた仲間たちは、ただ歩くのも楽しげというのに。


「そりゃあ──見てみな」


 父は思案げに目配せをした。沿って歩く川の方向を。

 差し渡し、十間近い。流れの真ん中は碧く、両際はざあざあと白波を立てる。なにを見ろと言うのか探せば、舟のない桟橋があった。


「……ええ、なにしてんだ?」


 桟橋には船頭姿の男が居た。それはいい、問題は遠巻きにする男ども。二十人からのほとんどが褌一丁で河原に座り込む。

 水に入るためと思うが、今は世話するべき舟がない。ならばなにかしら纏わねば、風邪をひいてしまう。人ごとながら心配でもあり、目を疑った。


「一日に何度か、荷運びの舟が着く。その荷を勝手に運んで、見返りを貰おうって腹積もりだ。まあ運ばせるほうも当てにしてるんだろうが」


 頼まれたでもなく。するとそれは、役目の奪い合いになりはしないか。つまり見返りとやらの奪い合いだ。

 なぜそんな必要があるのか、自分の村しか知らない松尾には想像がつかない。


「あれでも働いて稼ごうってんだ、まだいい。その辺の暗がりに、動きたくても動けねえ奴がわんさと居る」


 言って父は、目立たぬ風に顎を動かした。そっちと、あっちと、家の途切れた合間や伸び放題の藪の中を示す。

 たしかにいかにも病人めいた痩せ細った者の、血走った視線とぶつかる。


「足りねえんだよ。寝床や着る物どころか、食う物もな。さっきの家持ちの連中だって、いつ転がり落ちるか気が気じゃねえのさ」

「そんなの、持ってる人が分けてやれば──」


 松尾の村ではそうだった。誰かが困れば、他の誰かが助けてくれる。ゆえに、腹が減って食う物がないという事態がどうすれば起きるか分からない。

 もしそうなれば村の全員が同じ境遇のはずで、どうして食い物や家のあるなしが生まれるやら。


「出すなよ」


 低く抑えながらも鋭い声に、松尾の手が止まる。言うとおり、懐から乾飯を取り出そうとした。


「米の飯なんか持ってるとなりゃあ、どうなるか知れたもんじゃねえ。お前の優しい気持ちはいてえほどだが、昨日の鬼と同じだ」


 鬼に立ち向かうには、鎧も刀もない。理解をしても、すぐには頷けなかった。重ねる父の声が「堪えてくれ」と頼むまでは。

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