第2話:服ろわぬ者(二)

 しょっからい──

 蒸して丸めた白飯を干しただけの乾飯を、噛むたびに松尾の舌は強い塩味を感じた。

 顔を上げて鼻を啜れば、大人たちは大とっくりを回し飲む。村での晩飯時に見るやかましさは欠片もなく、波打つどぶろくの跳ね音さえ聞こえた。


「……父ちゃん」


 指一本にも満たない距離、父の耳へ呼びかけるのにはしばらくの時間が必要だった。突如として現れた地獄から目を離さなかったはずだが、気づくと鬼の影はなくなっていた。


「あれ、なんだ?」


 父の返事は聞こえなかったが、続けて問うた。か細い囁きでも、誰かが睨むかもしれない。そう思いつつ絞り出した声は止められなかった。


「まあ、その、鬼だな」


 ためらい気味に、しかしいつもの声で父は答えた。だから松尾もどっしりした膝を降り、次を問おうと思えた。

 倣ってあぐらに座り、両手を膝へ置く。震えの伝うのが手から脚へか、脚から手へかは分からない。爪を喰い込ませ、背すじを伸ばし、全身の力を振り絞って喉を動かした。


「助けられなかったのかな」


 声より先、父の鼻息が大きく噴いた。怒ってはないと感じたが、ではなにかとまでは察せない。


「誰でもなぁ、手の届くとこには限りってもんがある。こっちは地べたで、崖の上から飛ぼうって奴は止められねえ」


 仏堂の外へ、父の首が向く。差しこむ月光の中、細めた眼がいよいよ閉じた。


「武士みたいに刀や鎧があれば、なんとかなるのかもな。それも普段から稽古してなきゃ、使いものにならねえだろうが」


 おもむろに、父は両手を合わせた。聞こえるかどうかの念仏も。

 慌てて、松尾も見習った。背恰好をしか知らない山伏が、安く成仏するようにと。


「鬼ってのは、とにかくでたらめにつええそうだ。普通の人間じゃ、どうにもならん。俺も力比べしたじゃないが、お前ももう疑わねえだろ?」


 向き直ると、見開いた父の眼がじっと見つめていた。息を呑むのと同時に頷く。


「でも俺達は、こうやって町まで行かなきゃならねえ。いや、町に着いたって鬼は出る。夜になればどこへ居たっておかしくねえんだ、備えねえ奴は痛い目を見るんだよ」

「備え?」


 父は自身の背負子に手を伸ばす。「なんだってそうだろ」と。


「魚を獲るのも酒を拵えるのも、糸をどこに垂れるか、どれだけ米を蒸すか。いざって時に考えてたんじゃ埒が明かねえ。それが遠くに行こうってなら、危ねえ話は仕入れとくもんだ」


 いつも手伝う松尾には、頷く以外にない。父がこうと言って間違ったことなど、一度もなかった。


「難しくはねえんだ。どれだけ力が強くても、鬼は馬鹿だからな。戸をしっかり閉めておとなしくしてりゃ、わざわざ捜しには来ねえ」


 ぐるり、仏堂を見回す父。松尾は目を逸らさず、首肯を繰り返した。町へ行くのも次の季節を迎えるための備えで、今回が限りでない。山伏のことを言いつつ、覚えろということだ。


「さっきの奴は、そんなことも知らなかったんだろうさ。どこから来たか知らねえけど、誰か教えてやってりゃあとも思うが」

「──かわいそうだね」

「言ってくれる仲間とか道連れとか、持てなかったのがな」


 大きな手が、頭のてっぺんを力任せに撫でる。


「もし父ちゃんが助けに行けば、ここに居るみんながかわいそうなことになる。松尾になにかあったら、俺はどうしていいか分からなくなる。だから許してくれよ?」


 言って手を止め、前屈みに上目遣いで父は笑った。対して松尾は、置いた膝から手を動かせなかった。どうするのが正解か見当もつかぬまま、強く拳に握るのが精々。


「──許すとかないよ。かわいそうってのは、あの人がかわいそうってだけで、父ちゃんに危ないことさせたいなんて思わないんだからさ」

「そうか、優しいな松尾は」


 父は満足げに松尾の肩を叩くと、最初に背中を預けた壁ぎわへ這い戻る。背負子で格子を塞ぐのも忘れずに。

 じぃんと、強い痛みがすぐに薄れていく。しかしなぜか同じ箇所を、道連れの村の大人達も代わる代わるに叩いた。父と違い、埃を払う程度だったが。


「えっ、なに?」


 目を丸くして問うても、誰の返答もない。父とこれだけ話したあと、今さら鬼の耳を気にするでもあるまいに。いつものごとく、からかっているのか。いやそれには、どうも様子が違う。

 仮定をすぐさま打ち消し、悩むことしばし。ふと気づいた松尾は、両の拳を開いて床に突いた。


「みんな! 仲間って言うには、まだなにも知らないけど。教えてくれよ、覚えるから」


 かわいそう・・・・・にならないために、やるべきはこうだ。首と目玉が、勝手に父のほうを向こうとする。しかし堪え、頭を下げた。


「おうよ」

「頼りにしてるぜ」


 比較的に歳の近い兄貴分も、何倍も離れた男も、めいめいの一言を投げかける。

 良かった。

 出しかけた声を、咄嗟に呑み込んだ。あの山伏を思えば、言ってはならなかった。


 代わりの言葉も見つからず、松尾は深く頭を下げ直す。それから音をさせぬよう立ち上がり、そそくさと父の脇へ尻を落ち着けた。

 いつもしがみつく胸板へ、手を触れなかった。その代わり、自身を抱きしめるようにして目を瞑る。


「父ちゃん、おやすみ」

「ああ」


 どこからか聞こえるような、山伏の悲鳴に謝り続けながら。しかしもう、怖ろしいとは感じていなかった。

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