異説 酒呑童子『鬼は幻、人は…』

須能 雪羽

第一幕 松尾丸

第1話:服ろわぬ者(一)

 夜が落ちてきた。

 格子戸越しに眺める松尾まつおには、そう思えた。わずか十間向こうの、つい先ほどまで歩いた道が黒く染みついていく。

 街道の踏み分けられた雑草と乾いた土、倒れた茅とまばらな木立。それぞれの持つ明らかな境界が溶け合い、物と物の区別が難しくなる。


「父ちゃん、もう夜になった」

「だから言ったろ。もう幾らも歩けねえって」

「うん、父ちゃんの言うとおりだった」


 振り返る。朽ちかけた仏堂には父だけでなく、大人の男が五人。朝から同じ道中を歩んだ、村の仲間だ。

 各々の背負子を脇へ置き、いまだ「やれやれ」と肩を揉む。お世辞にも狭い床は、全員が足を伸ばすのでどうやら限界だった。

 荷の木箱から喉を衝いて噎せさすような、むしろ甘ったるいような、干物や鱠の香りが漏れ伝う。


「おい松尾、そこは風が吹くだろ。父ちゃんの脇へ来い」


 足に草鞋わらじ。前合わせの筒袖つつそでと、裾へ紐を通した括袴くくりはかま。雪の季節は過ぎたと言え、日が暮れれば途端に冷たい風を孕む。

 松尾の返答より早く、父の太い腕が自らの背負子を押して寄こした。格子戸を塞ぎ、少しでも風を入れるなと言うらしい。


 数えで八つの松尾には、長く歩いて火照った身体がまだまだ熱い。冷えすぎるくらいでちょうど良く感じ、父の背負子に触れる動作をのろくした。

 これから峠を登る街道に吹き下ろす風が、いかにも冷たげに哭く。それも含め、取り立てて珍しい景色はない。

 しかし生まれて初めて村を出て、遠く離れた場所で夜を過ごす。格子戸から離れがたいのには、きっとそういう心持ちも関わった。


「ひぃ──」


 松尾の耳に、小さな音が届く。さすがにぶるっと震え、格子を握る指を離した頃合い。父の背負子から、「ん」と仏堂の外へ視線を戻す。

 しかしやはり、見える物は碌になかった。頭上に邪魔のない街道へだけ、いつの間にかの月光が白んでいたが。


「執心だな、なんの面白おもしれえ物がある?」


 夜啼きの鳥かな。

 女の悲鳴と区別のつかない啼き声をする鳥や獣もある。正体に察しをつけた松尾は、ため息めいて笑って見せた。

 しかし問うた父が急かす。「いいから。こっちぃ来い」と。


「ひぃぃぃ! たっ助けてくれえ!」


 びくっ、と背すじが伸びた。今度は間違いのない人の声。高く裏返っていたが、大の男の。

 先よりも明らかに近い。同じく聞こえたはずの父は、松尾へまっすぐの眼を細めただけだ。いやそれから渋柿でも食ったように、結んだ口を歪める。


「助けてって」


 松尾の両手が、また格子を握り締めた。十字の木組みをすり抜けんばかり、顔を押しつける。吹く風、踊る草木。ざわめく中に、土を蹴立てる草鞋の足音が大きくなっていった。


「父ちゃん、こっちに来る」


 まま、目玉だけを父に向けた。なにがあったかさておき、父や村の仲間たちは手を貸すものと松尾は疑わない。

 けれども返答は、横に首が振られるのみ。より渋く、ひしゃげた父の表情に、なぜと問うことはできなかった。


 ばたばたともつれて走る音を、重々しい別の音が追う。一つ鳴るたび、漬物の重石でも放っているかに響く。

 松尾たちも歩いてきた方向から、やがて枝葉の間に間に姿が見え始めた。


 淡い月光に白く映るのは法衣であるらしい。額の上には八角をした小さな頭襟ときん。房付きの袈裟や杖は見えないが、山伏の姿に間違いなかった。

 村では一番の父と同じくらいに背が高い。偉丈夫と呼んで差し支えない山伏が長い腕を振り回し、何もない街道上を溺れたように走る。


 すぐ、山伏は松尾の見る正面を過ぎた。半ばまろびながら、せかせかと繰り返しに後ろへ顔を向ける。しまい忘れた舌と飛び散る脂汗までも見えた、と松尾を錯覚させる有り様で。


 視線に倣い、山伏の背に迫る闇へ眼を凝らす。神社の太鼓ほど生真面目でないが、およそ一定に地面が鳴る。

 間なし、ぬっと人の形が浮かんだ。

 しかし大きい。背も、腕も脚も。高さだけを言っても、松尾が父に肩車をしてもらうくらいがあった。衣服や持ち物はなく、擦り切れたぼろぼろの布が腰を覆うだけ。

 肌は月の光を受けてさえ青褪めていた。喩えるなら紫陽花の色の、顔料を濃く塗りたくったかに。


 そういう扮装をした冗談としか思えないほど大柄の男、と言えなくもない。ただ、頭頂に生えた一本の突起を除けば。

 何本か指を束ねた太さが、先端で鋭く尖る。牛の頭を連想させる角が、山伏を追う巨体にはある。

 正面を見送り、繰り返しに聞いた村の年寄りの言葉を松尾は口に出す。


「鬼……だ」


 がたがた、格子が揺れる。掴む松尾の手が震えるのであって、腕も腰も脚も、喋る顎も震えているとそれで気づいた。

 本当に居るのか。

 年寄りを疑うわけでない。ただやはり、己の眼に映すのとは違う。


 脇から飛び出した手が、松尾の腕を握った。仰け反り、蹴りつけて逃れようとする。が、手の主は構わず這い寄る。

 掴んだまま、父はあぐらをかいた。胸に松尾を抱き、格子へ背中を向けて。

 それでも肩越しに外が見えた。この先になにが起きるかも、村の年寄りは隠さなかった。


 山伏と鬼と、色の区別が曖昧になる。大きいのと小さいのと、二つの影が重なり合った。

 一方の腕が。あれは立ち木を振り上げたのだというほどの太い腕が、無造作に振り下ろされた。

 水気の多い、きっと瓜でも潰した音色が響く。一度で済まず、二度、三度、四度。


 松尾は幾度となく、まぶたを閉じるべく試みた。だが叶わない。鬼の持つという不可思議な力で凍りついたかと思うくらい、言うことを聞かなかった。

 見てはいられない。しかし見なければ、次の瞬間になにがあるだろうと不安が拭えない。

 知らぬうち、乾飯ほしいいが口の中へ入っていた。しばらく噛まねば飲み込むのも難儀なこれがなければ、大声を上げていただろう。


 ぐずり。ぐずり。

 息遣いなど聞こえもしない距離から、泥を捏ねるかの気配が届く。地面に座り込んだらしい鬼の手もとで。

 やがてそれ・・は高く吊り上げられる。釣った大物に見惚れる釣り師のごとく、鬼は右から左から睨めているようだった。


 ごくり、ごくり。

 鬼の食事は箸を使わなかった。汁を啜るのも、饂飩うどんのようななにかを口へ運ぶのも、両の手で。これだけは、村の年寄りの話にも聞かなかった。

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