第二十八話「『おかえりなさい』と『ただいま』を交わしました」
並び立つ本棚に収められた膨大な数の文庫本は、守矢の記憶そのものだった。
藍里は立て続けに何冊かの文庫本を開いていき、守矢の過去を垣間見ていった。
「龍神様」とやらに命を捧げる為、激流へと身を投げたこと。
流れ着いた先で、元々葛葉村の辺りを治めていた先代の「神様」に拾われたこと。
――そして、「神様」が死にかけていた守矢を土地に縛り、新たな土地神に仕立て上げたこと。
一部はタケ様から聞いていた話とも合致する。
『お前が新しい葛葉の土地神か。俺様か? 俺様は――気軽に「タケ様」って呼んでくれていいぜ?』
記憶の中にはタケ様も出てきていた。先程聞いた通り、先代の土地神から守矢の後見役を頼まれたのだ。
明るい灰色に金糸の刺繍が施された狩衣姿で、流石にサングラスはかけていない。黄金に輝く蛇のような瞳が神々しく、今のタケ様よりも威厳があるようにも見える。
『で、お前の名は? ……うん? 覚えてない? 自分の名前だけ思い出せない? ……ったく、あの人め。土地に縛り付ける為に、名を奪っていったな? 仕方ねぇ、名前が無いのも不便だろう。お前さんは今日から、「守矢」と名乗れ。由緒ある高貴な名前だ。大事にしろよ?』
言いながら、ぐりぐりと守矢の頭を撫でるタケ様。一方の守矢は、表情一つ変えない。
(そっか。守矢って名前を神様に付けたのは、タケ様だったんだ)
最初の集落の記憶の時からそうだったが、守矢が神様になる前の名前は雑音が混じって全く聞き取れなかった。恐らく、タケ様の言った「名を奪った」という言葉が関係しているのだろうが――今は、そのことについて調べている場合ではない。
藍里は好奇心を抑えて、その本をそっと閉じた。
その後に並ぶ文庫本を開いてみると、少し内容に変化があった。頭の中に飛び込んでくるイメージが、断片的かつ不鮮明になったのだ。
葛葉村へ流れつくまでの記憶は鮮明そのもので、まるで映画を見ているかのようだった。けれども、それ以降の記憶は所々が飛び飛びで、セピア色の写真のようにどこか色褪せてもいた。
もしかすると、守矢が「神様」になったことが、記憶の鮮やかさと関係しているのかもしれない。
――命を救われたのと引き換えに、葛葉村の新たな神様となった守矢。先代の子孫達、つまり葛葉家のご先祖様達と暮らし始めた彼には、数奇な運命が待っていた。
まだ十歳程の子どもだった守矢は、普通の人間と同じくすくすくと成長していった。だが、大人になって以降、彼の容姿は一切変化しなくなってしまった。
同年代だった人間達が年老いて死んでいくのを、新たに生まれてきた子ども達がやがて死んでいくのを、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も、守矢は見送っていた。
その間にも、山中の小さな集落だった葛葉村には、葛葉家以外の人間達も住まうようになり、田畑も人も家も増え、栄えていくことになった。
(いつだったか、タケ様が言ってたっけ。葛葉の人間は神様に残された、ただ一つの寄る辺だって)
今なら、その言葉の意味が少しだけ分かる気がした。
守矢にとって葛葉の人間は、彼が神様になってからずっと同じ時を過ごしてきた唯一の血族なのだ。守矢自身にとっても、子孫のような存在なのかもしれない。
――藍里は更に文庫本を開いていく。そこからは、平和で単調な守矢の記憶が繰り返されていった。
村の外が乱世であろうとも、葛葉村は常に平和そのもの。時折、落ち武者や流浪の民が村へやって来て外部の血をもたらし、血が濃くなることもなく、権力者に脅かされることもなく、変化に乏しい日常が続いていく。
しかし、その日常も近世に入ってから段々と失われていった。それには幾つかのきっかけがあったようだ。
最初の一つは、守矢が何年も眠り続けるきっかけになった、村の子ども達の遭難事件。話に聞いていた通り、村の田畑は荒れ果て、人々は病に倒れ、村が滅びかける程の惨事になったようだ。
――と。
(あれ? この、村が寂れている時に何度もお米を運んできてくれている人、タケ様だわ)
断片的な記憶の中に幾度も登場する、見覚えのある人物に、藍里は気付いた。
他の村人達と同じような質素な恰好をしたタケ様が、米俵を担いで何度も村を訪れていたのだ。
どうやら、守矢が眠り続けている間、「地縁・血縁のある者以外を神の力で助けてはならない」というルールに反しない程度に、葛葉村を援助してくれていたようだ。
(これじゃあ、タケ様が村の人達の宴会に紛れ込んで、タダで飲み食いしていても怒るに怒れないわね)
どこか温かい気持ちになった藍里だったが、記憶の中には少々ギョッとするような光景も広がっていた。
タケ様が村の若い娘と、明らかに深い仲になっていることを窺わせるシーンが幾つも見受けられたのだ。しかも、ある時はその女性が赤ん坊を抱いてさえいる。
(これ、もしかしなくてもタケ様の子ども? ということは、葛葉村にはタケ様の子孫もいるのかしら?)
詳しい話を聞きたいような、聞きたくないような。そんな気持ちを抱きながらも、藍里は更に先の文庫本を開いていった――。
***
守矢が目覚めた後も、葛葉村の日常はどんどんと変化していった。
明治の御一新の頃には、江戸時代まであやふやだった葛葉村の所属が法律で定められた。この頃から、文庫本は崩し文字ではなく活字で記されるようになっていた。
大正の頃には玉藻の街との行き来が盛んになり、多くの文明の利器がもたらされた。
昭和においては、守矢の護りの甲斐もなく何人かの村人達が戦争へと駆り出され、帰らぬ人となった。
平成に入ると、村にインターネット回線がもたらされ、いよいよ外との垣根が低くなり始めた。
(この村にとっても、現代の変化はめまぐるしいものだったのね。……あら?)
そこで藍里は、他の文庫本とは毛色の異なる本が収められていることに気付いた。よく見れば、それは藍里も愛読している作家・比企古森の本だった。
(記憶を収めた本に紛れてるなんて、神様はよっぽど比企古森が好きなのね)
ちょっとだけ開いてみようかとも思ったが、そんなことをしていては時間がいくらあっても足りない。
そもそも、タケ様には「今の守矢を探せ」と言われていたのに、こうして過去の記憶ばかり漁ってしまっている。時間を無駄にしてしまったかもしれないと思い、藍里は途中の本棚を幾つも飛ばして、直近の記憶を探し始めた。
やがて――。
「この棚が最後みたいね」
確かめるように独り言ち、最後の一冊に手を伸ばす。
これより先にも本棚は立ち並んでいるが、いずれも中身は空だ。だから恐らく、この文庫本が守矢の最新の記憶だろう。
そこには、藍里との生活についても書かれているはずで――思わず藍里の喉がごくりと鳴った。
(これを開いたら、神様からは私がどう見えているのかとか、そういうことも分かってしまう可能性があるのよね?)
守矢への淡い憧れの気持ちを抱き続けている藍里にとって、最も怖いのは「守矢から全く異性として見られていない」事実を突き付けられることだ。
――もちろん、相手は神様なので自分のような小娘は相手にもされていないとは感じている。けれども、それを事実として、しかも「記憶」というこれ以上ない証拠で突き付けられるのは、精神的ダメージが大きすぎるのだ。
(でも、これを開かないと、「今の神様」は見付からない訳だし……覚悟を決めなくちゃ)
バクバクとうるさい心臓の鼓動を宥めながら、藍里が文庫本を開こうとした、その時だった。
「藍里よ。神とてプライバシーはあるのだぞ?」
「……えっ!? か、神様!?」
気付けば、いつの間にやら守矢がそこにいた。その顔には苦虫を噛み潰したような渋面が広がっている。藍里が初めて見る表情だった。
「いつの間に、そこに」
「ついさっきだ。藍里が僕の記憶の本棚を荒らしてくれたお陰で目が覚めた」
「あ、荒らしたって……私は神様の最新の記憶を探していただけで」
「本が時系列に並んでいることには、すぐに気付いたのだろう? だったら、初めから最後の一冊を探せばよかったのではないか?」
「あ、あう……」
図星を突かれ、思わず口からおかしな動物の鳴き声のような声を漏らす藍里。
それを見て、守矢の表情が苦笑いに変わる。どうやら、そこまで怒っている訳ではなさそうだった。
「まあ、好奇心があるのはいいことだ。ただし、次からは僕に直接訊いてくれ。こんな、盗み見するようなことをせずに、な」
「はい……」
「さて、気を取り直して……。藍里、ご苦労だった。人の身でここまで来るのは大変だっただろう」
「いえ、タケ様が全部手配してくれましたから」
実際、藍里はただ、タケ様の指示通りに動いただけだ。褒められる程のことは何もしていない認識だ。
「謙遜をするな。お前には、神々の作法なぞ何も教えていないのだ。今まで触れてこなかった霊的な世界へ飛び込むなど、かなりの覚悟が必要だったであろう――助かったぞ」
「あっ……」
優しい笑顔と共に、守矢の手がそっと藍里の頭を撫でた。
今は肉体から抜き出た精神体の状態のはずなのに、不思議とその手のぬくもりがしっかりと伝わって来て、藍里は思わず赤面した。
「しかし、本番はここからだ。タケ様から聞いていると思うが、これから霊脈とお前、そして僕の『縁』を繋ぎ直す。これで弱まっている村への守護も復活するが……もちろん、代償が必要だ」
「しばらくの間、私は村から出られなくなるんですよね? そのくらいなら」
「馬鹿者、そんな温い話ではない。僕と霊脈との仲立ちをするということは、藍里自身が神の世界へ一歩踏み込むのと同義だ。ただの人間ではなくなるのかもしれないのだぞ?」
守矢の表情は真剣だった。その目が「出来ればこの手段は取りたくない」と言っているようにも見える。
けれども――。
「神様。具体的にどんなことが起こるんですか?」
「そうだな。普通の人間よりも老化が遅くなるし、大きな自然災害の際には心身に影響もうけるだろう。それに……お前の素質ならば、そのまま神への道も開けるかもしれない。僕と同じ、不老の生を持て余すことになるかもしれん。それでも構わんのか?」
「はい。むしろ、神様と同じ生を歩めるのなら……嬉しいです」
「っ――」
守矢の目が大きく見開かれる。まさか、藍里の口からそんな言葉が出てくるとは思っていなかったのだ。
「僕はてっきり、大友の娘の為に、お前が我が身を犠牲にしようとしているのだと思っていたのだが」
「私は、そんな立派な人間じゃありません。美沙奈さんを助けたいという気持ちも嘘じゃないですけど。その……神様の『花嫁』になれるのなら、それはむしろ役得かな、なんて――あ、もちろん冗談ですよ?」
思わず本音がポロリと出てしまい、慌てて誤魔化す。けれども、藍里自身が思っていたよりも気持ちの籠っていたその言葉は、確実に守矢へと届いていた。
「やれやれ、奇特な娘だとは思っていたが。僕が神になってからの数百年以上の間、そんなことを言ったのは、お前が初めてだぞ」
「ええっ? 神様、モテそうなのに……」
「そもそも、僕はこの村の人間としか顔を合わせん。村の人間は、幼い頃から僕を敬うよう教育される。間違っても、対等な異性として見ようなどという
守矢の言葉に、藍里は「なるほど」と思った。確かに、村人達は守矢と親しく接してはいたが、その実どこかで一線を引いているようにも見えた。最初から恋愛対象とはならない存在なのだろう。
――だが、藍里は知っている。美沙奈の守矢への一途な思いを。
きっと今までも、美沙奈のような女性はいたはずなのだ。守矢が気付いていないだけで。
そのことを守矢に指摘してもいいのだが、そうなると自然、美沙奈の恋心をバラしてしまうことにもなる。乙女の秘密を守る為、藍里は大人しく口を噤むことにした。
「まあ、よかろう。藍里自身の覚悟が出来ているのなら、もう何も言わん――だがな、藍里よ。神の領域に踏み入ることを、決して軽く考えるなよ? 霊脈が安定するまでの数年間、予想だにしない試練がお前を襲うだろう。それらを無事乗り越えた時に、僕はもう一度同じ質問をする。その時までに、よく考えておきなさい」
「……分かりました」
「良い返事だ。では、そろそろ皆の所へ戻ろうか」
守矢がそっと右手を差し出す。
藍里は少し照れながらも、その手に触れる。――その瞬間、光が弾けた。
***
「おっ。お嬢ちゃん目が覚めたかい?」
「……タケ様。ということは、私」
「ええ、無事に戻ってこられたのよ」
藍里が目を覚ますと、そこは元の部屋だった。タケ様と智里がほっとしたような顔を見せる。
「あっ。ということは」
ガバッと起き上がり、守矢の方を見やる。そこには――。
「おかえりなさい、神様」
「……ああ。ただいまだ、藍里」
少しだけ照れくさそうにした守矢の姿があった。
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