第二十七話「深く静かに潜航しました」

 ――落ちていく。真っ暗闇の中をどこまで落ちていく。

 藍里の意識は今、底なしの暗闇をただただ重力に引かれるように落ち続けていた。

 だが、恐怖はない。落ち行く先、暗闇の向こう側に何か温かいものが流れているのを、はっきりと感じていた。恐らくは、霊脈というものの気配だろう。

 やがて、藍里の抱いていた予感の通り、暗闇を切り裂いて眩い光の大河が姿を現した。


(これが霊脈――まるで天の川だわ)


 それは、沢山の粒子が集まり、複雑な流れをみせている光の大河だった。見た目は天の川によく似ているが、その輝きは夜空のどんな星よりも明るい。

 光の大河は幾筋にも分岐し、穏やかな流れと急流とが複雑に混じり合い、あるいは揺蕩っていた。もしかすると、霊脈が乱れているせいなのかもしれない。


(ええと、確か。まずは霊脈に触れる……でしたっけ?)


 そこではたと気付く。今まで意識していなかったが、藍里には手足が無かった。それどころか、身体そのものがどこにも見当たらない。

 ただただ、感覚だけがそこにあるような状態だ。これでは、霊脈に触れることなど出来ない。


(どうすればいいんだろう? タケ様は特に説明していなかったから、そんなに難しいことではなさそうだけど)


 無い首を捻りながら、とりあえず「霊脈に触れる」イメージを思い浮かべてみる。

 すると、今まで全く存在しなかったはずの手足の感覚が不意に生まれた。その感覚を辿っていくと、やがて藍里の身体全体が暗闇の中に浮かび上がるように姿を現した。

 どうやら、この空間ではイメージをしっかりと思い浮かべなければ、自分の身体を認識出来ないらしい。


(不思議な感覚。でも、これなら――)


 イメージの手を霊脈の流れへと近付ける。その後を追うように、藍里の手がしっかりと伸ばされる。

 藍里はそのイメージを維持したまま、そっと霊脈に触れた。藍里の手が、心地良いぬるま湯のような温もりに包まれる。

 その温もりは、やがて藍里の全身を包んだ。それと同時に、藍里の体が霊脈と同じ色の光を放ち始めた。どうやら、無事に霊脈との「縁」を結ぶことが出来たらしい。


(後は……神様のことを思い浮かべれば、元の部屋に戻れるはず)


 静かに、守矢の顔を思い浮かべる。

 意志の強そうな眉を。一見すると神経質そうだが、実は優しさを湛えた眼差しを。

 少し骨ばっているけれども、まるで古代ギリシャの彫像のような造形美を備えた顔立ちを。

 ――藍里の作ったご飯を美味しそうに食べてくれる、ちょっと子どもっぽい所も。


 気付けば、光の大河は遥か眼下に遠ざかって、藍里の体は暗闇の中を上へ上へと昇りつつあった。

 落ちていた時の数倍のスピードだが、恐ろしさはない。それどころか、ぐんぐんと慣れ親しんだ地上が近付いてくる気配を感じ、安心感すらある。

 そして――。


(帰って来た!)


 気付けば、藍里は守矢の寝室へと帰還していた。ただし、その体――精神は宙に浮いていて、横たわる自分自身の肉体を見下ろしている。

 当たり前だが、写真でも鏡に映った像でもない自分自身の姿というものを、藍里は初めて見ていた。


『お嬢ちゃん、帰って来たようだな』

『タケ様! 私の姿が見えるんですか?』

『あったり前だろう。俺様、神様よ?』


 ニカっとした笑顔を藍里に向けるタケ様。その傍らの智里があらぬ方向をキョロキョロとするばかりなので、彼女には見えていないらしい。


『さあ、お嬢ちゃん。ここからが本番だ。――覚悟はいいな?』


 タケ様の言葉にコクリと頷くと、藍里は眼下で横たわっている守矢の体に意識を集中し、その胸に飛び込むようなイメージを思い浮かべた。

 ――藍里の体が、吸い込まれるように守矢の体へと滑り込んだ。


   ***


 最初に感じたのは突風だった。物理的な風ではなく、情報の嵐が吹き荒れていた。

 ――喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、苦しみ。様々な感情が藍里の体を引き裂くように吹き抜けていく。

 ――痛み、痒み、痺れ、暑さ、寒さ、快感、不快感。様々な感覚が、藍里の体に湧きおこる。

 気をしっかり持たねば、藍里の脆弱な自我などあっと言う間に吹き飛んでしまう。そんな感情と感覚の暴風が、絶え間なく襲い掛かってきていた。

 それらは砂嵐が視界を奪うように、藍里の感覚を閉ざそうとしてきた。


(これが、神様の体の中……?)


 タケ様は「神の精神の中は、膨大な記憶の海になっている」と言っていた。だが、今吹き荒れているのは記憶以前の、もっと原始的な感情や感覚の波ばかりだ。どこにも「守矢」を感じない。


(もっと「奥」へ進まないと駄目なのかも)


 藍里は、感情と感覚の暴風に吹き飛ばされぬよう、まずは「脚が大地をしっかりと踏みしめる」イメージを浮かべた。――すぐに、固くしっかりとした地面の感覚が足に伝わってくる。

 そのまま、一歩一歩着実に、すり足のような歩き方で暴風の中を進んでいく。


(多分だけど、神様の記憶は風上の方にあるような気がする)


 そんなぼんやりとした予感を確固たる力に変えて、藍里は一歩、また一歩と進み続けた。

 吹き飛ばされそうな体を必死に折り曲げて、気が遠くなるような僅か数メートルを、長い長い時間をかけて進み続けた。

 ――と。不意に風が止んだ。


「……ここは」


 我知らず声が漏れる。気付けば藍里の姿は、どこかの室内にあった。

 天井の蛍光灯に淡く照らし出され姿を現したのは、一本道の木の廊下と、その両側に連なる無数の本棚だった。古ぼけた木製の本棚がずっと奥まで立ち並んでおり、そこにぎっしりと古めかしい文庫本が収められている。


 試しに、近くにあった本を手に取ってみる。カバーのない文庫本の表紙には、崩し文字で何やらタイトルが書かれているようだ。残念ながら、藍里には全く読めなかった。

 「中身も同じだったら読めないだろうな」等と思いつつ、本をそっと開く。すると――。


 ――そこには、地獄が広がっていた。

 山間の小さな集落には、そこかしこにやせ細った人々の死体が転がっていた。皆、質素な貫頭衣のような服を身に付けているところを見るに、かなり昔の人々だろう。

 そこではたと気付く。藍里の全身は再び消え失せていて、感覚だけが宙にぼんやりと浮いて周囲を感じ取っているような状態になっていた。

 動いたり視線を移したりは出来るのだが、体の感覚は全くない。幽霊にでもなった気分だった。


(それにしても……飢餓? いいえ、これは)


 既に筆舌にし難い状態となっている死体を薄目で見ながら観察すると、ある共通点に気付いた。

 青黒く変色した遺体の肌、そのいたる所に赤黒い斑点のようなものが見受けられる。恐らく、何かの伝染病の痕だろう。この人々は、流行り病で亡くなったのかもしれない。


『みな死んじまったぞ! 残ったのはオラ達だけだ!』

『龍神様の祟りに違いねぇ。弥作のヤツが龍神様の川で魚なんか獲るから!』

『弥作の野郎の亡骸を川にぶち込んだが、まだ病は収まらねぇ! ヤツの息子もぶち込むべきだ!』

『バカ言うでねぇ! ――は、まだ生きてるでねぇか!』

『バチ当たりの息子を庇い立てすんのか? お前も川に沈めるど!』


 どこからか、集落の人々が言い争う声が聞こえてくる。

 見れば、集落の中心にある井戸らしきものの前で、生き残りの人々が話し合っているようだった。

 

『――はどこさ行った!』

『さっき、龍神様の川の方へ行くのを見たで』

『まさかアイツ、今の話を聞いて』


 人々がどこかへ駆け出す。藍里も慌ててその後を追うと――一瞬にして周囲の風景が切り替わった。

 ごつごつとした石が大量に転がる、どこかの河原のようだ。

 目の前に広がる川は幅こそあまり大きくないが、流れが急で深そうに見える。

 と、その河原に十歳ほどの男の子が立っているのが見えた。ボロボロの貫頭衣を身に付け、顔もドロドロで見るからに汚らしいが、藍里はその少年とどこかで会ったことがある気がした。


『龍神様、龍神様。お父の悪さをお許しください。村の人達は悪くありません。お父だけじゃ足りないのなら、オラもこの身を捧げます。村を助けてください!』


 最後は悲鳴のような叫びになりながら、少年が口上を述べ――激流に身を躍らせた。


(大変! 子どもが飛び込んだわ! 誰か!)


 声をあげようとするが、肉体のない藍里の言葉は誰にも届かない。

 集落の人々の声が遠くから聞こえてくるが、どう考えても間に合わない。

 そうこうしている間に、少年の姿は激流に呑み込まれ、あっと言う間に下流へと流されていった――。


「この本……もしかして」


 気付けば藍里の姿は、本棚の立ち並ぶ廊下に戻ってきていた。

 開かれた文庫本には、やはりミミズののたくったような崩し文字が並んでいて、読めない。だが、藍里はその内容をもう知っていた。

 つい今しがた幻視したあの光景が、この本に書かれている内容に違いなかった。理屈ではなく、そう感じたのだ。


「それに、あの男の子は、多分……」


 文庫本を仕舞い、すぐ隣にあった本を代わりに取り出し、開く。

 途端、藍里の精神は再び見も知らぬ山中に飛んでいた。――否、今度はどこか見覚えのある山中だった。


(まるっきり山林だけど、この地形は見覚えがあるわ。……これ、もしかしたら大昔の葛葉村?)


 全く同一ではないが、全体の地形が葛葉村に似ていたのだ。田畑は数えるほどしかなく、村の中を走っているはずの川は、現在のものとは比べ物にならないくらい立派だ。だが、確かに面影があった。

 ――と。


『神様! 河原に誰か打ち上げられてるよ!』

『ほう、どれどれ。まだ童子ではないか、可哀想に。――いや、まだ息があるな?』

『神様ぁ、助けられない?』

『残念ながら、あちこちの骨が折れているし、かなり弱っている。元々ご飯を食べていなかったのだろうね。遠からず死んでしまうよ』


 長身の青年と何人かの子ども達が、河原に打ち上げられた小さな人影を取り囲んでいた。

 青年は狩衣にも似た白くゆったりとした服に身を包み、紙烏帽子を被っている。藍里は「なんだか陰陽師みたいな恰好」等と、身も蓋もない感想を抱いた。

 一方、打ち上げられていたのは、先程の「本の記憶」の中で激流に飛び込んだ、あの少年だった。その顔をしげしげと眺め……藍里は息を呑んだ。やはり面影がある。


(間違いないわ。この男の子……神様だ!)

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