第二十四話「村の総意を知りました」

「あたくしからも、お願いいたしますわ」

「えっ、美沙奈、さん!?」


 藍里が思わず驚きの声を上げる。そこには、ここにいないはずの美沙奈の姿があったのだ。

 フード付きの半透明のレインコートに身を包んではいるが、強く打ち付ける雨風によって、ふわふわの髪は既にしっとりと濡れ乱れてしまっている。けれども、彼女の持つ気高さのようなものは、欠片も失われていなかった。

 彼女の背後には、見慣れた黒塗りの高級車の姿もある。どうやら気付かぬ内に、ここまでやってきていたらしい。


「大友の娘よ、ここは危険だ。疾く屋敷へ帰れ」

「いいえ、帰りませんわ! 。外崎のお姉様を、どうかお助け下さい」


 ペコリと頭を下げる美沙奈。村の職員も駐在も、それに続くように守矢に頭を下げた。


「神様! 私達はこういう日が来た時の為に、常に覚悟を持って生きてきたのです! かつて神様が村の外へお出になった際に村を襲った災厄のことは、父祖の代から教訓としてずっと受け継がれてきたんです!」


 頭を下げたまま駐在が熱弁を振るう。――藍里も後で聞いた話だが、村人達はずっと昔から、こういった事態が起こった時のことを想定し、備えていたのだという。

 駐在の言った「村の総意」とは、そのままの意味なのだ。


 守矢は美沙奈や駐在達を見下ろし、次いで藍里に目を向けた。

 ――迷っている。彼の目を見て、藍里はそう感じた。


「神様、私からもお願いします。外崎さんを、助けてください」

「そのことで、村もお前も危険に晒されるかもしれなくても、か?」

「……きっと外崎さんを見捨てたら、災害よりも恐ろしいことが私達の心に起こると思うんです。だから」

「――分かった」


 たった一言。それだけを呟くと、守矢は道祖神を越えて村の外へと一歩踏み出した。

 ――周囲に変化はない。守矢も、藍里や美沙奈の周りの「護り」もまだ健在なようで、暴風雨は襲い掛かってこなかった。


「どれ――」


 道路を流れる濁流をものともせずに、守矢がトラックに到達する。

 そのままトラックに手をかざすと――驚くべきことが起こった。


「わっ! う、!?」


 藍里が思わず驚きの声を上げた。彼女達の見ている前で、横倒しになっていたトラックがふわりと宙に浮いたのだ。

 トラックはそのままふわりふわりと宙を移動し村の内側まで到達すると、きちんと車輪を下にして地面に着地した。

 呆気に取られていた駐在達がハッと我に帰り、トラックのもとへ向かう。


「鍵は……よし、開いてる! 外崎さんは……これはいけない! 息はあるが、頭から血を流しているぞ! 担架の用意を!」


 駐在がテキパキと指示を飛ばし、職員達が素早く動き出す。

 四駆車から折り畳み式の担架を持ち出し、慎重に外崎の体を移していく。

 その間に、いつの間にやら高級車から出てきていた洗馬が、四駆車の座席の一部を折り畳み、担架を横たえられるスペースを作っていく。まさに阿吽の呼吸だった。


「よし、一旦村へ戻るぞ。外崎のトラックは……後で考えよう」


 守矢もいつの間にか村境の内側へと戻ってきていた。気のせいか息が荒く、顔色も悪いように見える。


「神様、その……お体に何か異変は?」

「まだ、大事ない。霊脈の乱れは……想定内だ。恐らくは、この嵐くらいは無事に乗り越えられるだろう――駐在よ、お前達はそちらの車で外崎を運べ。洗馬、すまんが僕と藍里も、お前の所の車に乗せてもらえるかな?」

「御意。ささっ、お嬢様も藍里様も、お乗りください」

「ありがとうございます、洗馬さん」


 全員が車に乗り込んだことを確認してから、二台の車は村へ戻るべく出発した。

 守矢の加護はまだ生きているのか、どちらの車も豪雨の影響を受けていないようだ。

 だが――。


「……神様? それに美沙奈さんも。酷い顔色……」

「大事ない」

「あたくしも……平気ですわ。雨で少し体が冷えてしまったのかしら、ふふ」


 村境を越えた影響か、守矢の体調は目に見えて悪そうだった。

 そして何故か、美沙奈までも顔色が悪い。桃色だった頬は、今やすっかり土気色だ。


「……藍里、よく聞け。土砂崩れで元々霊脈が乱れていたせいか、僕が村外へ踏み込んだことへの反発は、想定内で済んだ。だが……恐らく、反動自体はある」

「神様、あまり喋らない方が」

「いいから聞くのだ。自然災害は、恐らくあまり心配しなくてもよい。今までよりは雨風も強くなるであろうし、雪にも悩まされるかもしれんが、その程度で済む。だが……」


 守矢が目線を移す。その先には美沙奈がいた。

 美沙奈は守矢の視線に気付くと、たおやかな精一杯の笑みを浮かべてみせた。――その額を、大粒の汗が一筋流れ落ちる。


「人を護る力は、目に見えて落ちるだろう。村人達には、怪我や病気に重々注意するよう、言い含めてくれ。診療所の連中には……何か美味いものでも差し入れてやってくれ」

「神様……?」

「藍里。これからお前の身には、様々な試練が降りかかるだろう。だが、お前は一人ではない。遠慮せずに、智里や村の衆……それと、タケ様を頼れ。あんな神でも、お前のだ。必ず力になってくれる――」

「あの、神様? 先程から一体何を……神様?」


 守矢からの返事はない。いつしかその瞳は閉じられ、口からは穏やかな寝息が漏れている。顔色は真っ白に近い青で、まるで死人のようだった。

 思わずその頬に触れるが――温かい。どうやら生きてはいるらしい。

 見れば、美沙奈もいつの間にか寝息を立てている。相変わらず顔は土気色だが、その表情はどこか穏やかだ。恐らく疲れが出たのだろう。


(……なんだか私も眠くなってきちゃった。ちょっとだけ、眠ろう)


 突如として襲ってきた抗いがたい眠気に身を任せ、藍里の瞼が落ちる。

 眠りに落ちる間際、運転席から誰かのすすり泣く声が聞こえたような気がした。


   ***


 あの災害から数日が過ぎた。空はすっかり晴れ渡り、村は平穏を取り戻し――てはいなかった。

 県道は未だ分断されたままで、物資は滞っている。久しぶりの豪雨により川は氾濫し、田畑の一部は被害を受けた。

 一方、外崎は幸いにして外傷のみで済んだようで、もう立って歩ける程に回復していた。

 けれども――。


『神様、早く良くなってくださいね』

『神様、外崎さんを助けてくださってありがとうございます。ゆっくりお休みください』

『神様、好物の夏ミカンが食べ頃になる前に起きてくださいね』

『神様――』

『神様――』


 葛葉の屋敷の外からは、人々が柏手を打つ音と、思い思いの言葉が絶え間なく聞こえてくる。

 屋敷の中には入ろうとせず、板塀の向こう側から離れに向かって言葉をかけているのだ。

 藍里は離れの一室――守矢の寝室の中で、村人達の声を聞いていた。


 彼女の目の前には、守矢が横たわっていた。愛用の布団にくるまれて、安らかな寝息を立てている。

 だが、ここ数日、その瞳はずっと閉じたままだった。


「藍里ちゃん。少しは休まないと、貴女も倒れてしまうわよ」

「大丈夫よ、智里おばあちゃん。ちゃんと休んでるから」


 そういう藍里の顔色は、明らかに悪い。ろくに睡眠をとっていないせいで、目の下には大きなクマも浮かんでしまっている。

 ――結局、守矢は車の中で眠りに就いて以降、一度も目を覚ましていなかった。呼べど揺すれど、身じろぎ一つしない。明らかに、村境を越えた代償だった。

 そして、守矢が眠りに就いてから、葛葉村の中で様々な異変が起こり始めていた。


 老人や子ども達の間に体調不良を訴える者が出始めた。そのせいで診療所は大忙しのようだ。

 田畑の被害も思いの外大きく、一部の畑では収穫予定だった作物が全滅の憂き目に遭っていた。

 温泉地のような過ごしやすさを保っていた気温も日に日に下がり、地面のそこかしこには霜柱が立ち始めていた。

 恐らくは、霊脈が乱れた結果なのだろう。土砂災害こそ免れたが、村はこれから、村の外と同じく厳しい冬を迎えることになりそうだった。


「智里おばあちゃん。私、あの時どうするべきだったんだろう? 神様を止めるべきだったのかな」

「藍里ちゃんが気に病むことではないわ。もしいつか、村の外側で神様のお力に縋らなければならない時が来たら、その結果も含めて受け止める――それが村の総意だったから」


 智里の言葉通り、外崎を助けた判断を責める村人は誰もいなかった。事の次第を報告された村長からして「皆の衆、これからが踏ん張り時だ。今まで神様に助けていただいていた恩を返そうじゃないか」と、檄を飛ばしていたくらいだ。


 ――その昔、江戸時代の終わり頃のこと。村の子供たち数人が、村外の山で遭難したことがあったそうだ。

 大人達は守矢に助けを求めた。無論、守矢は自分が村の外へ出ることの危険性を教えたが、それでも村人達の意志は固かった。

 そうして、守矢は村の外で力を振るい、子ども達を救った。だが、その反動で今回のように永い眠りに就いてしまった。


 その眠りは数年間に及び、ようやく霊脈が安定し守矢が目覚めた時、村はすっかり荒れ果ててしまっていたという。

 田畑は不毛のそれと化した。老人たちは口減らしの為に自ら山に踏み入り、そこで生涯を終えた。

 大人達の幾人かは病で帰らぬ人となり、残された人々だけで細々とした暮らしをするようになっていたそうだ。

 そのことが、守矢の心にどれだけの哀しみと苦しみをもたらしたことだろうか?


 守矢の嘆く姿を見た村人達は誓った。「二度と神様を悲しませはしない」と。

 再び神様が村の外で力を使い眠りに就く時が来たとしても、今度は村を寂れさせはしない、と。

 そうして始まったのが、若者が街で仕事に就き、一人前になってから戻ってくるという習わしだったのだ――。


「神様は外崎さんを見捨てずに済んだ。村の人達は、神様の不在を自分達の力で埋める為に一致団結している。何も悪いことなんてないのよ、藍里ちゃん」

「でも、でも神様は目を覚まさないよ? それに――」


 いつしか、藍里はポロポロと涙を流し始めていた。

 もう一人、目を覚まさぬ者がいるのだ。


「美沙奈さんも……目を覚まさないんだよ?」

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