第二十三話「災厄が訪れました」

 翌日、村は珍しく激しい雨に包まれた。未明から降り始めた雨は、昼頃には激しい風を伴い嵐に近くなっていた。

 外出が出来ないほどではないが、川の氾濫のおそれもある。子ども達の学校は早引けとなり、田畑の手入れがある者以外は外出を控え、村は雨音に支配された。

 美沙奈と話そうと思っていた藍里は、出鼻をくじかれた形になってしまった。


『――県内では、土砂崩れの危険性が高まっており、一部地域には避難指示が出ております。避難指示が出ているのは――』


 テレビからは、近隣の災害情報が次々に流れてきていた。どこぞの川が氾濫しただとか、どこぞの地域で大きな土砂崩れが起こりそうだとか。玉藻市でも一部道路が冠水する被害が出ているそうだ。


「やっぱり、村でこれだけの雨だと、村の外はもっと凄いんですね」

「そうねぇ。私が生きている間でも、二、三度あったか無かったかくらいの雨ね。昔は、村へ繋がる県道が土砂崩れで埋まったこともあったかしら」

「ええっ!? それ、大丈夫だったんですか?」

「復旧までは時間がかかったわねぇ。幸い、電気は止まらなかったし、食料や燃料も持ったけれど」


 居間でテレビを眺めながら、智里がそんな話をしてくる。普通の山村であれば、唯一の外部との連絡道路が塞がれば一大事だが、葛葉村はやはり特殊らしい。

 けれども、逆に言えばそれは、村を一歩出れば大きな災害が起こり得るということだ。


(県道……あの山道で土砂崩れ、か。外崎さんは大丈夫かな)


 今日は平日ということもあって、外崎は仕事に出ているはずだった。もちろん、避難指示や土砂災害注意情報が出れば、彼女とて無理はしないだろう。

 だが、役所の出す災害予報がいつも絶対とは限らない。自然が相手のことだ、予想よりも早く災害が起こる可能性だってある。

 ――と。


「あら、電話ね」


 藍里の悪い予感に呼応するように、葛葉家の電話が鳴った。黒電話の似合いそうな屋敷だが、そこは流石にコードレス電話機を導入している。

 この居間にも子機が設置してあったので、智里がひょいっと手を伸ばし慣れた手つきで通話ボタンを押した。


「はい、葛葉ですが……あ、駐在さん? ……はい、はい。ええ……なるほど、分かりました。はい、神様と藍里ちゃんにも伝えておきます。ご苦労様です」


 通話は思いの外早く終わった。が、その僅かな時間で、智里の表情はすっかり曇ってしまっていた。どうやら、何か悪い知らせだったようだ。


「なにか、あったの?」


 恐る恐るといった感じで、藍里が尋ねる。まるで自分の悪い予感が当たったようで、「そんなはずがない」と思いながらも、胃がキュッとなるのを感じた。


「役場の方が県道の様子を見に行ったらね、村境の辺りの崖から滝のように水が流れていたんですって。県にも連絡して、全面通行止めにするみたい」

「ええっ!?」

「崖か道路か、もしくはその両方が崩落する危険性もあるかもって。藍里ちゃんも、しばらくは村境には近寄らないようにね」

「う、うん、もちろん! でも、この時間って確か」


 チラリと壁にかけられた振り子時計を見やると、既に三時を過ぎていた。いつもなら、外崎が午後の荷物を携えて村へ戻ってくる時間だ。――嫌な予感がした。


「……外崎さんが村へ戻ってくる頃ね。街の方に留まってくれていればいいのだけれど」


 居間に沈黙が落ちる。外からは風のゴウゴウという音と、屋根瓦を叩く雨音が響いてくる。

 安全の確保された村の中でこれなのだから、村の外は相当な嵐になっていることだろう。

 ――と、その時。


「……あれ? 雷かな。おばあちゃんも聞こえた?」

「ええっ? 私には全く聞こえませんでしたよ」

「遠くの方で、こう『ドーン! ゴロゴロ』って音が鳴ったように聞こえたんだけど」

「遠くの方から、雷みたいな音が……? まさか」


 智里の顔色がサッと青ざめる。ただ事ではなかった。


「どうしたの智里おばあちゃん? 雷は、神様の力でも防げないとか?」

「いいえ、そうではなくてね。藍里ちゃん、ある種の崖崩れの時にはね、雷みたいな轟音がするのよ。もしかしたら、村の近くの崖が崩れたのかも」


 言いながらスッと立ち上がると、智里はいそいそと居間を出て行った。慌てて藍里もそれを追う。どうやら、守矢のいる離れに向かうようだ。

 離れに続く渡り廊下は、屋根はあるが壁がないタイプだ。だが、激しい雨が降った時にも行き来しやすいように、木製の雨戸が閉められる作りになっている。雨戸は昨晩の内に閉めておいたので、今は隙間から射す僅かな外の光に照らされて、薄暗い通路と化していた。

 ――と。


「知らせてくれなくとも、既に僕の方でも把握している」


 ゆらりと、薄暗い中を幽鬼のように歩んでくる影が一つ。守矢だ。

 部屋着ではなく、外出用の際に愛用している浅葱色の着物に身を包んでいる。


「では、藍里ちゃんが聞いた音は、やはり」

「ああ。村境の辺りで、大きな土砂崩れがあったようだな。村の外側なので詳細までは分からないが、決して被害は小さくあるまい。駐在や役場の者達に知らせてくる」

「か、神様が直接行くんですか? 電話で連絡すれば――」

「誰かしらが様子を見に行かねばならんはずだ。村の中でも万が一ということもある。僕がついていって、安全を確保してやらねば、危険だ。二人は屋敷を頼むぞ」


 それだけ告げると、守矢は藍里と智里の間をすり抜け、足早に玄関へ向かおうとした。

 だが――その着物の袖を掴んで止める者がいた。藍里だ。


「何の真似だ藍里。僕は急がねばならん」

「あの……私も行きます! 何故だか、胸騒ぎがするんです!」

「外はこの雨だ。僕の護りがあったとしても、多少の危険は伴うかもしれんのだ。家で大人しくしていろ」

「いいえ! ……いいえ、私も行かせてください。自分でもよく分からないんですけど、今行かないと後悔しそうな気がするんです! ――お母さんが事故に遭った日みたいに、嫌な感じがするんです!」


 藍里の言葉に、傍らの智里が息を呑んだ。今まで、この話を他人にしたことはない。智里でさえも初耳だった。


「藍里よ。そういう予感がすることは、ままあるのか?」

「たまに、ですけど。私の悪い予感は、大概当たるんです」

「そうか……分かった、ついてこい。ただし、僕の傍を決して離れず、村の外へも出るんじゃないぞ」

「はい!」


   ***


 ――藍里はテキパキと身支度を整えると、守矢と共に雨の中、屋敷を出て行った。その目には強い意志の火が灯っており、今までの少々情けない藍里の姿とは一味違った。


「そう。藍里ちゃんは、迷ったり遠慮したりしないことにしたのね」


 一皮むけた姪孫の成長に、しかし智里は不安そうな眼差しを向けることしか出来なかった。藍里に教えたことはないが、彼女もまた「悪い予感が当たる」質なのだ。


   ***


 オレンジ色のレインコートに身を包み、藍里は豪雨の中を駆け出した。が、雨風は思ったよりも激しくない。

 見れば、先を行く守矢の周囲を、雨風が避けるように抜けてきていた。まるで見えない壁があるかのようだった。


「僕の近くにいれば、この雨も小雨程度になるはずだ。離れるなよ!」

「はい!」


 藍里の力強い返事に満足そうに頷く守矢。二人はそのまま、村役場へと向かった。


   ***


 村役場へ着くと、既に職員や駐在、力自慢の村人達が集結しつつあった。どうやら彼らも、土砂崩れの音を聞きつけて駆けつけたらしい。

 守矢達の姿に気付くと、黄色い雨合羽を着た年配の男性が駆け寄ってきた。村長だ。


「神様! わざわざ御足労頂き――」

「挨拶はいい。村長、そして皆も聞いてくれ。県道の、村境のすぐ外側の辺りで大きな土砂崩れが起きたのを感じた。すぐに差配を。現場には、万が一を考えて僕が同行する」

「なんと有難い! ――よし、各々準備にかかってくれ」


 村長の号令で、職員や村人達が動き出す。関係各所への連絡を始める者、通行止めの準備を進める者、現場へ向かう四輪駆動車を手配する者。各自が淀みなく動き始める。

 恐らく、普段からこういった不測の事態を想定して訓練しているのだろう。


 土砂崩れの現場には、駐在と土木作業に慣れた村の職員二人、そして守矢と藍里が向かうことになった。

 藍里が同行することには駐在達も難色を示したが、守矢の同意もあることを聞くと、それ以上何も言わなかった。


   ***


 四輪駆動車が、川のように水の流れる県道を走る。守矢が乗っていることで何らかの加護があるのか、雨と水の量の割に走りは安定している。フロントガラスを叩く雨の量も、心なしか少ない。

 やがて――。


「ああっ! え、えらいこっちゃ!」


 運転手の駐在が何やら叫ぶ。何事かと藍里と守矢も後部座席から前の方を見やり、言葉を失った。

 やはり、大きな崖崩れが起こっていた。県道に接する高い崖が抉れたようになっており、そこから大量の泥水が流れ落ちている。

 だが、本当の大事は水の流れる先にあった。崖の下にあるはずの県道までもが、すっかり抉れてしまっていたのだ。数メートルにわたって、完全に分断されている。

 ――しかも。


「大変! あれ、!」


 思わず藍里が叫ぶ。見れば、抉れた道路の淵に引っかかるようにして、見慣れたトラックが横倒しになっていたのだ。間違いなく外崎のトラックだ。

 車体の後ろ半分は崩落した道路部分に差し掛かっており、後少しでもバランスが崩れれば、崖下へと転落しそうだった。


「は、早くウインチで引っ張り上げてあげないと!」

「馬鹿! あっちはこの車よりも大分重いぞ! いくらウインチでも無理だ」

「じゃあ、ドライバーだけでも引っ張り出さないと」


 駐在と職員達が怒鳴り合うように対応を相談し始める。そうこうしている間にも、崩れた崖からは土砂混じりの泥水が流れ落ち、トラックの車体を揺らしている。

 素人目にも、一刻の猶予もなかった。


 すぐに発進出来るよう運転手の駐在を残し、守矢達は車外へと出た。

 守矢の周囲は相変わらず穏やかな雨風だが、トラックが横倒しになっている辺りは、視界も塞がんばかりの勢いで豪雨が降り注いでいる。正直、近付くのも危険そうに見えた。


「神様、外崎さんは中にいるんでしょうか? ここからだと、運転席の中がよく見えませんが」

「恐らく、な。藍里よ、あそこにある大石が見えるか?」


 守矢が指さす方を見やると、そこにはお地蔵様のような形をした大きな石が鎮座していた。ちょうど、トラックが倒れている辺りの村寄りくらいの位置だ。


「あれは村境を示す道祖神だ。あれより向こう側は、『村の外』ということになる。――口惜しいが、少しでも村の外になれば、僕の力も安定しない。トラックの運転席がどうなっているのか、それすらも感じ取れないんだ。……だが、ギリギリまで近寄れば」


 言いながら、守矢が慎重に足を運ぶ。藍里もぴったりと寄り添うようにそれに続く。

 やがて、道祖神の目の前まで来た時――。


「中にいる、な。藍里よ、外崎はやはりあの中だ。……気の乱れも感じる。恐らくは酷い怪我もしているはずだ」

「そ、それじゃあすぐに助けないと!」

「無論助けたやりたいが……見ろ。道祖神より向こうの道路は、既に川の如き様相だ。下手に踏み入れば脚を取られ、崖下へ真っ逆さまだ」


 守矢の言う通り、まだ崩落していない道路の上にも夥しい量の泥水が流れ、急流のようになっている。泥水の流れる先は崖下だ。落ちれば間違いなく助からないだろう。


「そんな……じゃあ、どうすれば。神様、何とかならないんですか?」

「僕自身が村境を超えてトラックに近付けば、助けること自体は出来る」

「じゃ、じゃあ!」

「だが、村境を出れば僕の支配地域の外だ。村とは違う霊脈の流れに入ることになる。村の霊脈と一体である僕が他所の霊脈に踏み込めば、ただではすまん。村の霊脈は大きな被害を被るだろう」


 珍しく、苦々しさをにじませた表情で語る守矢の姿に、藍里は以前タケ様から聞いた話を思い出していた。


『昔な、あいつがやむなく村の外に出たことがあったんだ。その時は、村の霊脈が大いに乱れてな。そのダメージが全部守矢に向かって……あいつは数年間、眠り続けることになった。あいつが眠っている間は、村も活気が無くなっちまってな。一時は豪く寂れたものさ』


 守矢が村の外へ出れば、守矢自身も村も大きなダメージを被ることになる。

 葛葉村をの守り神たる守矢には、選べない選択肢だ。


「霊脈が乱れた時に村が被る被害は、未知数だ。外崎一人を助ける為に、村を危険に晒す訳にはいかない」

「神様……」


 悔しさに唇を噛む守矢の姿に、藍里は言葉を失った。

 守矢とて外崎のことを見捨てたくはないのだろう。だが、村全体をリスクに晒すことと外崎一人の命とでは、天秤が釣り合わないのだ。


 周囲を、凄まじい豪雨と濁流の音と車のエンジン音とが醸し出す不協和音だけが支配する。守矢も藍里も、なすすべなく今にも流れ落ちていきそうな外崎のトラックを眺めるしかなかった。

 ――その時だった。


「神様、外崎さんを助けてあげてください!」

「そうですよ! 俺達はこんな時の為に、自分の力だけでも生きて行けるように力を付けてきたんです!」


 同行した村の職員二人が、そんなことを言ってきた。二人とも表情は真剣そのもので、真っ直ぐに守矢のことを見つめている。


「お前達の思いは理解するが、村の衆がそれで納得するかどうか」

「いいえ、これは村の総意ですよ、神様」

「駐在。お前まで……」


 見れば、いつの間にか駐在も車を降りて、こちらへやってきていた。

 そして更に――。


「あたくしからも、お願いいたしますわ」

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